大正時代に作庭された洋風庭園と、“近代三大茶人”益田鈍翁・原三溪・松永耳庵が築いた茶室群。国登録名勝。
強羅公園・白雲洞茶苑について
「箱根強羅公園」(はこねごうらこうえん)は箱根登山鉄道の終点・強羅駅からすぐの場所にある公園。1914年(大正3年)の開園と100年以上の歴史を持ち、国登録記念物(名勝地)となっています。園内には近代を代表する数寄者/茶人のひとり・益田鈍翁が造営した“白雲洞茶苑”が残り、茶室“白雲洞”“不染庵”“対字斎”と白鹿湯・寄付の5棟が国登録有形文化財。
2021年、次回関東へ行く時には行こう!と決めていたのが国指定名勝に指定された『箱根神仙郷』。その隣にある公園がこの『強羅公園』。こちらも国登録名勝というのは随分前から把握していたのでずっと「行きたいなあ」と思っていたんですが、東京から“近くて遠い”箱根という存在…。初めて訪れました!
そして、「ここはすごい!」と思ったのは賑わう洋風庭園よりも“白雲洞茶苑”。近代の庭園・茶室・文化財を調べていると絶対目にするはずの益田鈍翁こと三井物産総帥・益田孝。高名な割に氏ゆかりの茶室や庭園ってほぼ残っていないのですが、ここが(ほぼ?)唯一の遺構…という大変貴重な庭園!
公園の歴史について。明治時代以降に別荘地・避暑地として開発された箱根の強羅地区。そんなハイソサエティ層が集う場として小田原電気鉄道(現・小田急)により大正時代に造営されたのが強羅公園。“限られた人にしか開かれていない公園”って、時代を感じる。
なお当初は“日本初のフランス式整型庭園”と言われる洋風庭園と和風庭園とが存在していましたが、戦後に和風庭園は世界救世教・岡田茂吉の所有となり『箱根美術館』の庭園(神仙郷)に。ちなみに箱根美術館との共通券もあります。
戦後の1957年(昭和32年)に現在のような一般に開かれた有料公園として開園。箱根の山々を借景とした噴水池を中心とした洋風庭園の中に、バラ園“ローズガーデン”や熱帯植物館、“Cafe PIC”や“一色堂茶廊”といった飲食店、工芸が体験できる“箱根クラフトハウス”などが点在しています。
一見ただの洋風公園なんだけど、巨石がふんだんに使われている迫力ある園路は“上流階級向けの公園だった”雰囲気を醸す。
老若男女が集う明るい公園の中で、独特の近寄りがたい雰囲気があるのが園内東部の“白雲洞茶苑”。大正時代の強羅公園の開園から程なくして益田鈍翁により造園されたこの茶苑、茶室“白雲洞”が「田舎家の席」の先駆的な事例と言われ、同じ近代の数寄者・根津嘉一郎(『根津美術館』の人)や阪急創業者・小林一三に影響を与えたと言われます。
“白雲洞”と共に建築されたのが茶室“不染庵”と白鹿湯・寄付。手掛けたのは数寄屋建築家・仰木魯堂。杉本博司の『江之浦測候所』の“明月門”の移築保存に関わった人と言うと伝わり易いか。
益田鈍翁からこの茶苑を引継いだのが横浜『三溪園』で知られる原富太郎(原三渓)。氏によりこれまた独特な背の高い茶席“対字斎”が建立。(対字斎の額は鈍翁の筆なので、完全に鈍翁が離れたわけではなかったみたい)
そして三渓の亡き後は松永耳庵こと“電力王”松永安左エ門が引継ぎ、白雲洞の床柱を奈良の国宝寺院『當麻寺』で使われていた1000年を経た古材へと改変。
それらの茶席が点在する庭園も独特で――強羅公園がハイソサエティ向けの非常に整った公園という中で、元あった巨石を残した暗く険しい山の中の庵(茶室)を行き来する世界観。めちゃくちゃ面白いし、“近代三大茶人”により築かれた歴史的背景的にも、“山荘風の茶苑”の代表的事例としても国の文化財であってもおかしくないような気もするんだけど――。
けれども、戦後は荒廃し1982年(昭和57年)に公園所有者の箱根登山鉄道により修復されたのが現在の姿――という点で文化財にはなってないのかな。
国指定名勝で言うと兵庫の『田淵氏庭園』がその代表的事例になるのかな。近代の茶苑として、京都の『茂庵(旧谷川茂次郎茶苑)』ともまた全然スケールが違って面白いので、ここは庭園として日本100名園(←公式なものはないけど)とかにも入ってきて欲しい。
(2021年10月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)
アクセス・住所 / Locations
箱根登山ケーブルカー 公園下駅より徒歩1分
箱根登山鉄道 強羅駅より徒歩7分
最寄りバス停は「箱根美術館・強羅公園」バス停 徒歩2分
〒250-0408 神奈川県足柄下郡箱根町強羅1300 MAP