渡辺蒿蔵旧宅

Former Watanabe Kozo Residence Garden, Hagi, Yamaguchi

松下村塾で吉田松陰に学んだ最後の生き残り&日本の近代造船を牽引した渡辺蒿蔵の近代和風邸宅と露地風庭園。

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渡辺蒿蔵旧宅庭園について

「渡辺蒿蔵旧宅」(わたなべこうぞうきゅうたく)は明治維新後の日本の造船業を牽引した実業家・渡辺蒿蔵が地元・萩に明治時代に建立した邸宅。座敷から眺める露地風の枯山水庭園があります。

2021年7月に約7年ぶりに萩へ。幕末の志士や明治維新後に政府の要職を務めた人材を多数輩出した萩。そのうちの一人、山縣有朋が椿山荘・無鄰菴など“山県三名園”を作り上げたバックグラウンドとして、萩の城下町では“庭園”が身近な存在だったことが影響している(のだと思う)。

…と言いつつ前回来た時は全然庭園って目線で巡ってなかったんだけど。2015年にユネスコ世界遺産『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』にも登録された萩の城下町は偉人の武家屋敷や町家に多数庭園が残ります。

幕末“松下村塾で吉田松陰に学んだ最後の生き残り”としても有名な渡辺蒿蔵(天野清三郎)。松陰からも評価され、松下村塾の同期生・久坂玄瑞らとともに奇兵隊に加わりますが、1864年(元治元年)の禁門の変で長州藩が敗れ久坂らが自刃したことをきっかけに西洋兵学の道へ。

藩命による兵学を学ぶための留学も、長崎⇒アメリカ⇒イギリスと渡った先で身に着いたのは西洋の造船の技術と知識。帰国後は新政府で日本の造船業の近代化に貢献し、現・三菱重工長崎造船所日本郵船でも局長や社長など要職を務めました。

東京や小田原など関東で最後を迎えた長州藩出身者も多い中で、渡辺は晩年は萩に帰郷し『松下村塾』の保存事業に尽力。ちなみに有名な?“長州ファイブ”の写真を所有していたのも渡辺蒿蔵。仲間想い。
隠棲のために明治中期に建てられたのがこの『渡辺蒿蔵旧宅』で――晩年と言っても“松下村塾の最後の生き残り”として唯一の昭和年代、97歳までの長い時間をこの邸宅で過ごしました。

その後も渡辺家の邸宅として用いられましたが、2004年に渡辺家より邸宅と遺品とともに寄附。2008年からの3年間の修復整備工事を経て、2012年4月より一般公開が開始されました。屋内ではその時寄附された写真や遺品も展示されています。

晩年は茶道を嗜んでいた渡辺翁邸、主屋の主座敷・脇座敷は所々数寄屋風の意匠が見られ、三畳台目の茶室も。棟札に記された名前は棟梁・澄川為三郎、石工・杦本良助、棒頭・永安常次郎
この“石工”というのが気になって…建築の基礎や沓脱石も石だけど、それ以上に石が使われているのって庭園。石工=造園工事、作庭をした方だったりする??萩にはそう呼ぶカルチャーがあったり??残念ながらこの“杦本良助”という名前、約30年間蓄積されたワールド・ワイド・ウェブの中にも残されていない…。

主庭園は座敷からの鑑賞性と茶室へと至るための飛び石が主体となっている二つの目的が反映された“露地風庭園”。これまで紹介した萩市の“出雲流庭園に似た”庭園の特徴がここでも見られます。
一般公開前には荒廃していたため、剪定や植栽、飛び石の据え直しなどが行われたものの、原型は明治時代のもの。座敷から正面見て奥へと飛び石が続いていて、最後が少し高い石になってるから向かいにもう一棟建物があったのかな(現在は一般の住宅)。

また邸宅の南側は橋本川に面する土手。かつてはこの堤防も昔はこんなに高くなく、2階からは川の景観が楽しめたのかもなあ(※2階は非公開なので「もしかしたら今も眺められる」かもだけど不明)。城下町の中心や観光エリアからは少し離れていますが、素敵な近代和風建築と庭園!

(2021年7月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)

アクセス・住所 / Locations

JR山陰本線 萩駅より徒歩15分
JR山陰本線 東萩駅より徒歩30分
萩駅・東萩駅より路線バス(循環バス)「福祉作業所つばき園前」バス停下車 徒歩1分
※萩駅・東萩駅にレンタサイクルあり

〒758-0041 山口県萩市江向5 MAP

投稿者プロフィール

イトウマサトシ
イトウマサトシ
Instagram約9万フォロワーの日本庭園メディア『おにわさん』中の人。これまで足を運んで紹介した庭園の数は2,000以上。執筆・お仕事のご依頼も受け付けています!ご連絡はSNSのDMよりお願いいたします。
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