本間家と並び称された大地主・伊藤四郎右衛門家や三菱系実業家・池田亀三郎の別荘をルーツとする近代日本庭園。『寄暢亭』も手がけた名庭師・山田挿遊作庭。
清亀園(旧伊藤四郎右衛門家別邸庭園)について
「清亀園」(せいきえん)はかつて日本一の地主とも言われた豪商『本間家』と酒田で並び称されたという大地主・伊藤四郎右衛門家が明治時代に造営した別邸をルーツとする和風建築と日本庭園。庭園は酒田の名庭師と呼ばれた山田挿遊の作庭。
JR酒田駅から徒歩10分。山形県酒田市の中心部(旧市街)へと向かう途中に位置する日本庭園「清亀園」。『本間美術館』の庭園の様な文化財庭園ではなく、酒田の観光ルートからは微妙に外れているため、複数回訪れた中でもあまり他の来園者を見掛けない…のですが、とても立派な庭園を無料で鑑賞することができます!
その歴史について。江戸時代から本間家に次ぐ豪商/大地主として庄内藩の財政を支えていた伊藤四郎右衛門家。七代目四郎右衛門が1891年(明治24年)に造営した別邸が清亀園のルーツ。当初は敷地内に(景色のための)水田をもうけるなど現在よりも広大な庭園だったとか。
しかし伊藤家は大正時代に事業に失敗し没落。以降、木工業を営んだ北原直次郎を挟み、実業家・池田亀三郎の所有に。旭硝子(現・AGC)、三菱化成工業、三菱油化(現・三菱ケミカル)など大企業の社長もつとめた氏はこの庭園のある酒田市浜田町の出身(なお三菱時代には四日市コンビナート/鹿島コンビナートを構想・開設に尽力した人物)。
そして氏の逝去後、1979年(昭和54年)酒田市が取得、修復/整備を経て一般公開開始。池田亀三郎の名にちなんで「清亀園」と名付けられました。(それ以前は「浜田庭園」と呼ばれていたとか)
また現在は市民向けの貸室として活用されている旧別邸(建築)の調査・修復を担当したのは「庭屋一如」の提唱者としても知られる、京都の数寄屋建築の巨匠・中村昌生。この清亀園も建築と庭園が調和した姿を評価されていたそう。なお建築の設計・施工は奥泉長右衛門。
和風建築の前に池泉を配し、所々に立派な庭石と石灯籠が配され、そして植栽も立派なマツがいくつもそびえる池泉回遊式庭園。作庭者・山田挿遊は非公開ながら酒田の名園として名高い『寄暢亭』の作庭者でもあり、50名以上の門下を擁し名庭師と呼ばれていたそう。
京都での修行歴もある氏のこの庭園は築山の上の庭石も見応えある近代日本庭園。
あと彫りのある赤石の沓脱石がとても瀟洒/オシャレで…当時の施主や庭師のセンスが垣間見えます。庄内の国指定文化財庭園と合わせて訪れてみて。
(2013年7月、2017年7月、2023年9月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)