税務署の一角に残る気になる石組。皇族・久邇宮別邸に隣接した邸宅に、大正時代頃に作庭された庭園。
左京税務署庭園について
「左京税務署」(さきょうぜいむしょ)は大阪国税局の管轄する税務署。その一角に近代に作庭された庭園の遺構が残ります。
「おにわさんも知らないと思う庭園見つけた」
「えー、どこですか?」
「税務署」
「税務署」
という感じで同僚から教えてもらい、春に見に行きました。
で、これが結構「これは当時かなりのお金を掛けて作られたものなのでは」という感じの大きな庭石による石組が残っていて。飛び石に沿って築山の上の方まで登ると、沢っぽい表現がなされていたりする。個人的には『御所西 京都平安ホテル』の滝石組に似てるな~と思ったり。あくまで印象ですが。
例によって立命館大学アートリサーチセンターの『近代京都オーバーレイマップ』(+国土地理院の航空写真検索)を見ます。
左京税務署がこの地に置かれたのは昭和20年代。それ以前、大正時代にはこの地に建物の姿があり、その建物の姿のまま税務署に(昭和20年代の航空地図で見ると『平安神宮』北西部の武道センター(旧武徳殿)の北側に庭園+屋敷っぽい姿が見える。その後昭和30年代に四角い屋根の建物(現在残るコンクリート造りの建物?)が建ち、その時点で残っていた屋敷は昭和50年代には姿を消し駐車場に。しかしながら庭園だけは残り。
とすると、この庭園は大正時代頃に作庭されたもの。元々枯池式だったのか、雑草が少なければも少し枯山水だなって感じになるのか、築山上部の流れの遺構っぽいところに水が流れていたのかはわからないけれど…雑草こそ生えているけど樹木のお手入れは毎年されている様子。
コストを考えれば維持するよりも潰しちゃうのも手だと思うんだけど、維持され続けているのは“それなりに価値があるものだと言い伝えられているから”なんじゃないかな。知りたい。敷地内に残る蔵の“水”という印がそのヒントなんだろうけど。
なお昭和年代の地図ではすぐ北西に『久邇宮別邸』の文字。当時の久邇宮邦彦王といえば昭和天皇の后・香淳皇后の父親。皇族邸と隣接していたのだからこの庭園も格式の高い方によるものだったんだろう。
※なお久邇宮別邸は2003年の航空地図までは樹木が生い茂っている姿が見えるのですが、2008年の航空地図から広大なコインパーキングに置き換わっている…。インバウンド時代の到来がもう少し早ければ、そんな格式高いお屋敷も残されていたのかもなぁ。
“深く”ではなく“広く浅く”の当サイトでとり急ぎ掘れるのはここまで。研究のネタに迷ってるランドスケープ系の学生さん、是非調べてください。笑。
(2020年3月・4月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)