楽々園(玄宮楽々園)

Rakurakuen Garden (Genkyu-Rakurakuen), Hikone, Shiga

世界遺産の登録を目指す国宝“彦根城”の歴代城主・井伊家が代々隠居所とした藩主御殿“槻御殿”と枯山水庭園。玄宮園とともに国指定名勝。

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玄宮楽々園/楽々園について

「楽々園」(らくらくえん)は日本国内で5つのみの国宝天守を有する城郭の一つ『彦根城』の城内に残る江戸時代の旧藩主屋敷と大名庭園。隣接する『玄宮園』とともに『玄宮楽々園』(げんきゅうらくらくえん)として国指定名勝で、国の特別史跡『彦根城跡』にも含まれます。

江戸時代に多くの大老・老中を輩出した大名・井伊氏の居城で、現在は世界遺産への登録を目指している彦根城。その井伊家の代々の城主/藩主が愛でた庭園が玄宮園と楽々園。2022年7月に約1年半ぶりに訪れました!それぞれ分けて紹介します。

関ヶ原の戦いの後に近江に入った“徳川四天王”の一人・井伊直政。当初は石田三成の居城『佐和山城』に入りましたが、敵将の居城であることを嫌い移転を計画。そして築城されたのが彦根城。井伊直政はその完成を見ることなくこの世を去りますが、意志を継いだ子の井伊直勝(井伊直継)井伊直孝、家老・木俣守勝によって1623年(元和8年)に完成。

大きな池泉回遊式庭園『玄宮園』の奥、西の一角にある楽々園。元々は玄宮園と同じく江戸時代初期の1677年(延宝5年)に彦根藩四代目藩主・井伊直興により建立された下屋敷のあった場所でした。当初は“槻御殿”(けやきごてん)/“黒御門前御屋敷”と呼ばれたこのお屋敷は、藩主の政務・生活の場だった『表御殿』に対して隠居所として用いられました。

当初の槻御殿は倹約令などの影響で徐々に縮小されますが、江戸時代後期の彦根藩11代藩主・井伊直中が隠居する際に大規模な増改築を実施。唐破風の立派な玄関を持つ“御書院”はその際に新築されたもの。
この御書院だけでもだいぶ大きいのに、全盛期にはこの10倍ほどの広さの建築が広がっていたとか…。後の大老・井伊直弼もこの槻御殿で誕生しました。

まず御書院と玄宮園との間にある枯山水庭園が楽々園の庭園。江戸時代後期の増改築に合わせて作庭されたもので、手前に砂利の枯池、中景に迫力ある枯滝石組、そして玄宮園や佐和山?方面を借景としたスケールの大きな枯山水。
この枯池も数年前は芝生に覆われていたのだけど、砂利に統一されてデザイン的に引き締まった感がある。なおこの庭園の前身の?江戸時代初期の庭園は米原市の同じ国指定名勝『青岸寺庭園』から運ばれた庭石が用いられ、青岸寺庭園と同じ井伊家家臣・香取氏により作庭が手がけられましたそう。

御書院と連なって庭園の少し高台部に位置する数寄屋建築が茶座敷“地震の間”。初めて訪れた頃(2014年〜2016年)は老朽化による修理のため外観も覆われて見られなかったけど、2018年から外観が見られるように!
これがまたカッコいい…柿葺の数寄屋建築もいいけど、その基礎部分は険しい山を表現したかのような自然の石積をもうけ、建築も小さいながら懸造になっているところ。こういう石積との組み合わせの茶室/数寄屋建築はあまり見たことない気が。

明治時代以降は再び縮小され、残された書院・地震の間・楽々の間などを活用して『旅館楽々園』が開業。楽々園の名は12代藩主・井伊直亮が増築した楽々の間が由来になっています。

いずれの建築も基本的には外からの見学のみですが、御書院の建築内部の特別公開が不定期で行われることも(ちょうど訪れた前日までやってたんですよね…知らんかった…)。藩主屋敷に相応しい豪華な意匠もあるみたいなのでいつか中も見たい…。今後もかつての“槻御殿”の修復は続くようなので、時々見に訪れたい庭園!

(2014年12月、2015年3月、2016年5月、2018年12月、2022年7月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)

アクセス・住所 / Locations

JR琵琶湖線 彦根駅より徒歩17分

〒522-0061 滋賀県彦根市金亀町3-41 MAP

投稿者プロフィール

イトウマサトシ
イトウマサトシ
Instagram約9万フォロワーの日本庭園メディア『おにわさん』中の人。これまで足を運んで紹介した庭園の数は1,900以上。執筆・お仕事のご依頼も受け付けています!ご連絡はSNSのDMよりお願いいたします。
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