初詣の参拝者は日本2位。東日本を代表する寺院に隣接する公園の作庭は渋沢栄一邸も手掛けた近代の庭師、二代目松本幾次郎・松本亀吉。
成田山新勝寺/成田山公園について
「成田山 新勝寺」(なりたさんしんしょうじ)は日本で第2位の初詣の参拝者をほこる関東/首都圏の代表的な寺院の一つ。江戸時代から残る三重塔などが国の重要文化財に指定されているほか、本堂の設計を吉田五十八、太子堂・開山堂の設計を伊東忠太、大塔の設計は工学博士・大森健二(建築研究協会)が担当するなど、近代~現代の著名建築家がその建築を手掛けています。
また本堂の裏手にある石積の石庭は昭和の東京を代表する作庭家・岩城亘太郎(岩城造園)の作庭。新勝寺の境内東部に広がる広大な公園『成田山公園』(なりたさんこうえん)の一部は東京の渋沢栄一邸庭園(『旧渋沢庭園』)や新潟の国指定文化財の庭園『旧齋藤氏別邸庭園』を手掛けた近代の作庭家・2代目松本幾次郎・松本亀吉が手掛けていて、名前こそ“公園”だけれど現存する庭園の少ない氏の貴重な近代日本庭園でもあります。
2022年5月に約5年ぶりに訪れたのでその際の写真を交えて紹介。
新勝寺の歴史は平安時代中期にさかのぼる。当時、東国で勃発した平将門の乱の平定と平和を祈願するため、朱雀天皇の勅願のもと京の都から関東入りした寛朝僧正により940年(天慶3年)に創建。当時運ばれた御本尊の不動明王は弘法大師空海の作と伝わります。
その後も源頼朝、千葉常胤、徳川将軍家や水戸藩主・徳川光圀(水戸黄門)、佐倉藩主・稲葉家といった関東の武将に信仰されたほか、歌舞伎役者・市川團十郎が帰依し“成田屋”の屋号を名乗ったことから庶民人気も広がり、現在では深川不動堂(東京別院)をはじめ全国各地に別院があります。(新勝寺自体は京都『智積院』を総本山とする“真言宗智山派”の大本山)
“成田詣で”の流行により独特の門前街が形成されたのは江戸時代以降。国指定重要文化財の仁王門、三重塔、釈迦堂(旧・本堂)、光明堂、額堂はいずれも江戸時代の中期〜後期に建築されたもの。
現在の本堂(大本堂)は前述の通り吉田五十八の設計で昭和年代(1968年)に建築された現代の建築ですが、(お堂の前の広いスペース含め)日本屈指の参拝客をほこる寺院に相応しい大きな本堂になっています。
本堂奥の石庭に関しては公の解説はないのだけれど、“五百羅漢の庭”みたいな感じかな…。吉田五十八×岩城亘太郎のタッグとしては静岡・御殿場の『東山旧岸邸』など。
そして各お堂の奥に広がるのが東京ドーム約3.5個分、16万5000平方メートルの広大な『成田山公園』。その歴史は古く、1877年(明治10年)に前身の「成田山花園」が開園。1928年(昭和3年)に成田山公園として今日の原型が出来上がりました(その後1998年に大修復を経たのが現在の姿)。
その一角(昭和後期に竣工した平和大塔の周囲)には西洋庭園もあるけれど、全体的には“文殊の池”“竜樹の池”“竜智の池”という3つの池からなる池泉回遊式庭園といった感じで——
四季の花木、点在する石灯籠、浮御堂…大阪の『万博公園 日本庭園』の様にこれは“日本庭園”と名乗れば“日本庭園”になるもの。
庭園の中のハイライトはまず“竜智の池”にある浮御堂付近からの平和大塔を借景。そして池の逆側、清滝権現堂の脇の階段を降りたところにある大滝“雄飛の滝”とその周辺の石組。庭園内でも“森の中”の雰囲気を醸す中にある滝〜流れはもっと日本庭園的な評価を得てもよさそうな。
この成田山公園内にある大きな建物が1992年(平成4年)に開館した『成田山書道美術館』。新旧さまざまな書の作品を見ることができます。書家だけでなく正岡子規・高浜虚子など俳人/文人も参詣に訪れたこの成田山には著名な文人の句碑も。
秋の“紅葉まつり”では公園内にある茶室“赤松庵”でどなたでも無料で参加できる茶会が催されるとか。秋に成田山を訪れる予定の方はぜひ立ち寄ってみて。
(2017年4月、2022年5月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)