小倉の歓楽街にひっそりと佇む、文豪・森鴎外が暮らした明治時代の日本家屋。庭には小説で描写した百日紅も。北九州市指定文化財(史跡)。
森鴎外旧居について
「森鴎外旧居」(もりおうがいきゅうきょ)は明治〜大正時代に活躍した文豪・森鴎外が旧陸軍第12師団軍医部長として小倉に赴任した際に居住していた日本家屋。鴎外が明治時代に過ごした邸宅のうち、明治30年頃の建築とされる母屋がほぼそのままで残されています。北九州市指定文化財(史跡)。
2020年に初めて訪れました。“歓楽街のど真ん中にある”と見たことがあったけれど本当に。現在、森鴎外旧居は繁華街“鍛冶町”の一角にひっそり佇んでいるような形ですが、この旧居を真南に進んでいくと、かつては炭鉱王の邸宅があった『アートホテル小倉ニュータガワ』へとたどり着く。近代までは繁華街ではなく住宅街だったのかなあ、とか思う。
森鴎外が小倉へ赴任したのは1899年(明治32年)6月、37歳の時。そこから約3年間を小倉で過ごしていますが、この旧居では1900年(明治33年)の約1年半を過ごし、その間には軍務のかたわらアンデルセンの『即興詩人』、クラウゼウィッツの『戦論』などを翻訳。そして休みの日には小倉や九州北部の名跡・史跡へと精力的に足を運び、その様子を『小倉日記』へ残しました。「小倉時代が生涯で一番楽しかった」と鴎外が振り返っていた−−と、再婚相手・荒木志げは述べたそう。
鴎外がこの家を去った後、北九州市が1981年(昭和56年)に買収するまでの約80年で玄関・土間・庭などは大幅に改造されたそうですが、母屋の他にも鴎外がのちに執筆した小説『鶏』で下記のように描写された表庭のサルスベリとキョウチクトウが現存。また北九州市の所有となって以降、改築された部分も明治時代の姿へと復元されました。
北向の表庭は百日紅の疎な葉越に、日が一ぱいにさして、夾竹桃にはもうところどころ花が咲いてゐる
見学は無料で自由見学。通り土間に小倉時代のゆかりの地が案内された展示パネル等があります。裏庭に面した5畳の小座敷は半月風の欄間の意匠が素敵−−なのですが、裏庭の竹垣がボロボロなのは…気ならないとは言えないけど。笑。
裏庭にはこじんまりとした花壇があります。少しだけ同じ文豪で鴎外と親交もあった正岡子規の『子規庵』のことを思い出す。
2020年、同じく森鴎外旧居を客室とした東京・上野の老舗旅館『水月ホテル鴎外荘』が惜しまれつつ閉館。建物の保存のためクラウドファンディングなどが行われていました。“税金で文化財を維持”する時代もそう長くはないと思うからこそ、街の人が“偉人がいた”場に思いを馳せるようなアイデア/仕組み/ブランディング/教育−−色んな改善が必要なのだろうなと日々思います(…思うだけだけど)。
(2020年12月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)