
大原孝四郎の別邸に、近代京都を代表する作庭家・七代目小川治兵衛が“有隣荘”より先に手掛けた庭園。
新渓園について
「新渓園」(しんけいえん)は「倉敷美観地区」で有名な国の重要伝統的建造物群保存地区“倉敷川畔伝統的建造物群保存地区”の『大原美術館』に隣接する日本庭園。2020年11月、紅葉が見頃の時期に2年半ぶりに訪れました。
江戸時代から倉敷を代表する豪商であり、近代〜現代にかけて倉敷銀行、現・クラボウ、現・クラレなどを創業した“大原財閥”大原家。
現在の新渓園にも数寄屋風建築“敬倹堂”が残りますが、元の邸宅はクラボウ(当時・倉敷紡績)の初代社長でもある七代目・大原孝四郎が1893年(明治26年)に別荘として造営されたもの。本邸である国指定重要文化財の『旧大原家住宅』からは美術館を挟んで約100m程の距離。本邸の向かいにあるという意味で“向邸”と呼ばれたそう。
その後1922年(大正11年)に孝四郎の子であり、大原美術館の設立者・大原孫三郎により倉敷町(倉敷市)に寄贈。その際に孝四郎の雅号“新溪”から新溪園と名付けられ、以来街の施設として公開・開放されています。
市の施設なので敬倹堂の大広間や茶室“游心亭”を貸室として利用することも可。前回訪れた時は大広間でヨガが開催中だった(なので上がれなかったけど、今回は上がれた。なお前撮りや七五三の撮影をされている方は多かった)。
初夏にはサツキが、秋には紅葉が美しいこの池泉回遊式庭園の作庭を手掛けているのは京都の名作庭家・七代目小川治兵衛(植治)…という話について。これは新渓園の施設説明にはない話のですが。
『大原本邸』の庭園について調べていたら、鈴木博之著『庭師 小川治兵衛とその時代』に《有隣荘以前に本邸の庭園や新渓園も手掛けているよ》的なことが記載されていて。新渓園もそうだったのか…!と。
年代を推測すると、大原孝四郎が別邸をかまえた1893年頃の植治はまだ『無鄰菴』に携わりはじめた京都のローカル庭師。なのでその時には関わっておらず、大原孫三郎との繋がりを踏まえても大正11年の寄贈〜公開に至るタイミングで関わったのかな。園内の片隅にある“新渓園碑”(大正時代の年号)、読み取りづらくて読み切れてないけど、もしかしたら名前あるのかも。
なお、1991年(平成3年)に建物の老朽化にともなって建物と庭園も改修・修復されているそう。新たな茶庭を手掛けているのは地元・岡山のトシプランニングさん(直島の『ベネッセミュージアム』一帯のランドスケープも担当!)。その時の改修で新渓園は建築文化賞受賞建築物“優秀賞”に選ばれました。
植治の庭園の面影が消えているところはあるかもしれないーーけど、京都では価値ある名前として再三挙げられる名作庭家の庭園がしれっと公開されていて、市民や観光客の憩いの場になっているーー作者については語り継がれていないーーってのは興味深い。どなたか新渓園碑の解読をお願いします…(-人-)
(2012年1月、2018年5月、2020年11月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)