“日本三名園”の大名庭園は、築庭を命じた岡山藩主・池田綱政の時代から領民も鑑賞することができた開かれた庭。
岡山後楽園について
岡山の「後楽園」(おかやまこうらくえん)は言わずと知れた日本三名園の一つで、国の特別名勝。江戸時代初期~中期にかけて岡山藩二代目藩主・池田綱政の命により家老・津田永忠の指揮で作られた池泉回遊式の大名庭園で、園内からは川の対岸にある岡山城も眺められます。
高校生の修学旅行で初めて訪れて、“庭園”というものに興味を抱くきっかけになった後楽園はいつ訪れても心のベストテン第一位。2020年11月に秋に初めて訪れて――で、なんだかんだ写真をたくさん撮ってしまったので個別に紹介。今回は建物中心に。なお、現存する建物の多くは太平洋戦争の後に復元・再建されたもの。
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■新殿(10枚目)
園内の最も東部分にある建物の一つ。名前の通り比較的新しく幕末の頃に建立されたもので、1863年(文久3年)の絵図には「新御殿」と記されていました。その特徴は高床式で、唯心山を除けば比較的平坦な園内において一段高い目線から園内を眺めることができるようになっているそう。
なお、新殿の前に広がる茶畑は後楽園築庭当初からあるもの。現代では『皇居東御苑』や佐賀の現代の名庭園『慧洲園』で“庭園の景観としての茶畑”という表現を見ることができますが、そのはしりは岡山後楽園にあったのかも。大きな柿の木のオレンジ色との組合せも良い。
■延養亭~栄唱の間(12~16枚目)
藩主の居間として使われた延養亭から連なっているのが“栄唱の間”。その間から眺められるのが、池田綱政が好んだ能舞台。普段は公開されない場所ですが、後楽園にとってお能は切っても切り離せないもの(なのかもしれない)。いつか建物内部のイベントも参加したいな。
そんな栄唱の間の向かいにある池泉の中の巨石“大立石”は池田綱政が1691年(元禄4年)に運ばせた庭石。今は一つの巨石に見せていますが、重機などなかった当時は巨石を90個ほどに割って運びそれを元の形に組み上げたのが今の姿。“一番重要な庭石”が眺められる栄唱の間が後楽園にとって一番最初の視点場だったのかもしれない。
■茂松庵(19枚目)
栄唱の間からモミジが多く見られる林の中へ進むと現れるのが茶室“茂松庵”。築庭当初は“花葉軒”と呼ばれていたそう。現在の建物は昭和27年に再建されたもの。
■観騎亭(21枚目)
園内もっとも北にある茅葺き屋根の建造物。元は1696年と築庭の早い段階から存在した建物で、その名の通り「藩主が家臣の馬術を眺める」ための施設。現在は園内の片隅に佇んでますが、その沓脱石の大きさが格式の高さを語ります。
岡山後楽園は藩主のために造られた広大な庭園でありながらも、江戸時代から“御庭拝見日”がもうけられ領民が園内を散策することも許されたそうで、能を好んだ池田綱政は自らが舞う姿まで民に披露していたそう。
版籍奉還後に池田家から岡山県へと譲渡され、今日でもこの庭園が多くの市民や世界中から人が訪れる場所となっているのは、池田綱政が“開かれた庭園”を望んだからこそ、描かれた未来なのかもしれない。
(2009年3月、2016年3月、2018年5月、2020年11月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)