舞鶴公園 日本庭園“心種園”

Maizuru Park (Tanabe Castle ruins) Japanese Garden, Maizuru, Kyoto

戦国大名・細川幽斎(細川藤孝)が築城した“丹後田辺城”。その桃山時代から一部が残る、幽斎と古今伝授ゆかりの京都府暫定登録文化財の名勝庭園。

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舞鶴公園・丹後田辺城庭園“心種園”について

京都府舞鶴市の「舞鶴公園」(まいづるこうえん)は戦国武将・細川幽斎(細川藤孝)が築城した『丹後田辺城』の跡に開かれた都市公園で、『田辺(舞鶴)城趾』として舞鶴市指定文化財(史跡)。園内に残る旧藩主屋敷の庭園『心種園』が京都府暫定登録文化財(名勝)となっています。

甲府(現・舞鶴城公園)や福岡(現・舞鶴公園)を筆頭に全国各地に“舞鶴城”と呼ばれた城郭(城跡)がありますが、ここでは“海の京都”京都・舞鶴の城趾公園と文化財庭園を紹介。

JR西舞鶴駅から徒歩6~7分と程近くにある田辺城跡。その歴史は安土桃山時代にさかのぼります。織田信長の命によって明智光秀とともに丹後国を平定した細川藤孝とその子・細川忠興(細川三斎)により1578年(天正6年)から8年掛けて築城。現在の舞鶴公園は本丸と二の丸(藩主邸の庭園)に当たる範囲のみ(約2万平方メートル)で、往時はより大きな城郭でした。

園内に残る日本庭園『心種園』の一部(池泉の中島と三尊石組)は細川藤孝が城主だった桃山時代に作庭されたものと推定されています。なお舞鶴市内には細川幽斎の作庭と伝わる京都府指定名勝『金剛院庭園』も残ります。

関ヶ原の戦い後に細川家は九州へと移り、小倉城主を経て肥後熊本藩の大大名に。代わって京極氏が田辺藩主となりますが三代で豊岡に移り、その次に入った京都所司代・牧野家が明治維新まで約200年間この地を治めました。
二の丸庭園が“心種園”と名付けられたのも牧野家が藩主をつとめていた時代(幕末)で、これも細川幽斎のエピソードから。

またさかのぼって関ヶ原の戦いの頃。幽斎はすでに家督を細川忠興に譲っていて、忠興が主力を率いて関ヶ原の戦いに参戦しました。その留守を狙った石田三成軍によって幽斎が残っていた田辺城は包囲され約2ヶ月も籠城することになります。

平安時代から続く「古今伝授」の唯一の伝承者であり、歌人・文化人として随一の評価を得ていた幽斎。その幽斎の身を案じた後陽成天皇八条宮智仁親王『桂離宮』の造営者として有名)の勅命によって和議へと持ち込まれました。
その折、智仁親王に幽斎が送った歌が《いにしへも 今も変わらぬ世の中に 心の種を 残す 言の葉》。この歌を詠んだと伝わるマツの下に“心種園碑”が建てられ残ります。なお当時のマツは枯れてしまい、現在は5代目だそう。

廃城令によって建物は取り壊され堀も埋められた中で心種園は数少ない江戸時代以前の遺構であり、「京都の庭園」の中では決して有名な存在ではないないものの“京都の大名庭園”としても貴重な歴史を重ねています(2019年に京都府の暫定文化財に登録)。

また平成年代に大手門が復元され、『田辺城資料館』として歴代城主や田辺城・城下町の様子がわかるパネルや資料の展示を見ることができます。桜の名所、アヤメの名所としても市民に親しまれている城郭の文化財庭園、ぜひ訪れてみて。

(2022年5月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)

アクセス・住所 / Locations

JR舞鶴線・京都丹後鉄道 西舞鶴駅より徒歩6分

〒624-0853 京都府舞鶴市南田辺15-22 MAP

投稿者プロフィール

イトウマサトシ
イトウマサトシ
Instagram約9万フォロワーの日本庭園メディア『おにわさん』中の人。これまで足を運んで紹介した庭園の数は1,900以上。執筆・お仕事のご依頼も受け付けています!ご連絡はSNSのDMよりお願いいたします。
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