浄土寺庭園

Jodo-ji Temple Garden, Onomichi, Hiroshima

尾道のレトロな商店街を抜けた先にたたずむ国宝寺院…雪舟の子孫が江戸時代に作庭した国指定文化財庭園。豊臣秀吉が桃山城に建てた重文の茶室“露滴庵”も。

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浄土寺庭園について

広島県尾道市、JR尾道駅から約2km東に位置する「浄土寺」(じょうどじ)は飛鳥時代に聖徳太子が開いたと伝わる古刹。正式名称は「転法輪山大乗律院荘厳浄土寺」。鎌倉時代に建立され現代まで残る本堂と多宝塔が国宝に指定。また江戸時代に作庭された庭園も国指定文化財(国指定名勝)となっています。作者は水墨画で有名な“画聖”雪舟の13代目の孫とされる長谷川千柳

その歴史について。寺伝では飛鳥時代の616年(推古天皇24年)に聖徳太子が開基となり創建と伝わります。
そこから時は過ぎ鎌倉時代。奈良『西大寺』の僧で叡尊の高弟・定証上人が現在すぐ隣にある『海龍寺』に滞在した頃には浄土寺は無住で荒れたお寺となっていたそう。それを惜しんだ定証上人により、1303年~1306年(嘉元元年~4年)に掛けて境内を再興。その時に建立された伽藍は約20年後(1325年)に火災で焼失してしまったものの、その後すぐ再建された本堂、多宝塔が国宝に、阿弥陀堂が国の重要文化財に指定。建物の古さでは西国随一!

室町時代/南北朝時代、後に室町幕府将軍となる足利尊氏は一時九州に逃れることになる最中に浄土寺で戦運挽回を祈願。そして再び東へ攻め上がる際には戦勝祈願をし叶った縁から、浄土寺では足利家の家紋を寺紋としています。

そんな高僧や武将に信仰された時代を経て、江戸時代には商人の町として栄えた尾道を支えた豪商や一般民衆に信仰されるように。庭園を囲む方丈や茶室『露滴庵』、唐門、庫裏、客殿なども国指定重要文化財となっていますが、これらは江戸時代に入ってからの建築。
また、再興された後は『西大寺』に連なる真言律宗の寺院でしたが、江戸時代以降は京都『泉涌寺』を総本山とする真言宗泉涌寺派の大本山寺院となっています。(名前は浄土寺ですが浄土宗とは関係ない)

国指定文化財の庭園が作庭されたのは1806年(文化3年)。築山の上にある茶室『露滴庵』をアイキャッチとして、その脇から水が流れ落ちる築山泉水式庭園。手前の白砂の範囲が広いので一見すると枯山水庭園のようですが、築山の麓で実は流れている水路がこの庭園のデザインのポイントの一つ。

作庭を手掛けた“徳島の隠士”長谷川千柳は雪舟13代の孫という事ですが、雪舟は公式には「子がいない」とされる。だからなのか――この庭園、「どこどこっぽい」というのがあまり無い(オリジナル性がある)。
山口・島根に残る雪舟の庭園とは作風が異なるし、阿波国の様に豪快に自然石を使っている訳でもない。「京風だ」と言われればそういう要素もあるけれど京都の禅寺とは違う――。思い当たる所では、岡山市の『少林寺庭園』が似た雰囲気かも、と思うと“備前~備後”の地域性が反映されているとも感じられる。尚、文化財としての価値は『当時の庭園の絵図が残り、作者もはっきり判明している』点も含まれます。

築山上の茶室『露滴庵』は、実は豊臣秀吉が桃山城内に建てた茶室『燕庵』だったという、茅葺屋根の田舎家風で三畳台目の茶室。近畿地方から尾道対岸の『向島』の豪商・天満屋のお屋敷から1814年(文化11年)に浄土寺に寄進され現在地に移築されました。

建築のみならず、聖徳太子作と伝わる仏像や、各種美術品、石造物、文書…とかなりの数の国指定重要文化財を有しています。宝物殿も見始めると止まらない…!尾道の商店街の散策の後はこの名刹にも足を伸ばしてみて。
尚、この『浄土寺庭園』から徒歩5分程の場所には、江戸時代に浄土寺を支えた豪商・橋本家に作庭された庭園『爽籟軒庭園』もあります。併せてチェック!

(2014年8月、2018年3月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)

アクセス・住所 / Locations

JR山陽本線 尾道駅より徒歩25分
JR尾道駅より路線バス「浄土寺下」バス停下車 徒歩2分

〒722-0043 広島県尾道市東久保町20-28 MAP

投稿者プロフィール

イトウマサトシ
イトウマサトシ
Instagram約9万フォロワーの日本庭園メディア『おにわさん』中の人。これまで足を運んで紹介した庭園の数は2,000以上。執筆・お仕事のご依頼も受け付けています!ご連絡はSNSのDMよりお願いいたします。
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