かつて日本一の大地主と言われた酒田・本間家が庄内藩主を迎える為に作庭した国指定文化財庭園“鶴舞園”。昭和天皇ご宿泊の近代和風建築“清遠閣”での庭園喫茶も!
本間美術館 / 本間氏別邸庭園“鶴舞園”について
「本間美術館」(ほんまびじゅつかん)はかつて日本一の地主とも言われた豪商・本間家に伝わる美術品・歴史的な工芸品を中心に展示されている美術館。その庭園“鶴舞園”は『本間氏別邸庭園』として国指定文化財(国指定名勝)で、庭園内にある和風建築『清遠閣』は皇太子時代の昭和天皇がご宿泊された由緒ある建物です。
北前船の寄港地として栄えた湊町・酒田。そんな酒田を代表する豪商であり、秋田・大曲の『池田氏』、宮城・石巻の『齋藤氏』と並び称される「東北三大地主」の中でも最大規模の農地を有したのが本間家。
江戸時代の初めに初代・本間久四郎原光が酒田の街で『新潟屋』を開業、三代目・本間光丘は庄内藩主・酒井家の信頼を得ると藩の財政再建に取り組んだり、砂防林(松林)の植林、土地改良、水利事業など酒田の街づくりにも多大な貢献を果たします。
そんな本間光丘が1768年(明和5年)に建立したのが『本間家旧本邸』(山形県指定文化財)で、この美術館からは徒歩15分程の場所にありタイプの異なる枯山水庭園を鑑賞することができます。
現代ではJR酒田駅からすぐ/酒田の旧市街から少し離れた場所に位置するこの「別邸」は光丘の跡を継いだ四代目・本間光道により1813年(文化10年)に造営されました。本邸も当初は庄内藩主・酒田氏に献上された建物でしたが、この別荘も藩主の休憩所としての目的があったのだとか。
以来、藩主や明治維新後には政府高官を接待する迎賓館となり、1925年(大正14年)には皇太子時代の昭和天皇がご宿泊。それに先駆けて明治時代末期にお屋敷の改修/増築が施され、玄関入ってすぐの1階座敷と比べると増築部分はそのガラス戸や照明などのインテリア、階段の曲線など所々洋風な印象を受ける近代和風建築となっています。
そんな和風建築『清遠閣』から見下ろすのが国指定文化財の庭園。江戸時代の寺社仏閣・大名/武家以外の庭園としては随一の広さをほこるであろう、まるで大名庭園のような池泉回遊式庭園で、藩主・酒井忠器が滞在した際に池泉の中島のマツに鶴が舞い降りたことから『鶴舞園』(かくぶえん)と名付けられました。ちなみに清遠閣の名も天気の良い日には鳥海山を借景としている姿にちなんだもの。
(※これまで3回訪れて3回とも雲り〜雨と天候に恵まれていないのですが…直近の2023年は僅かながら山の姿が見える…?)
その庭園の広さや名峰の借景、晩春に花を咲かせ見頃を迎える多くのツツジの刈り込みや、歴史を感じさせるマツの高木、池泉側から見た和風建築との調和…などなどこの庭園の素晴らしさは沢山ありますが、特徴の一つは「カラフルな庭石」。
旧本邸と同じこの特徴、北前船を安定させるために積載した石(海神石)や、佐渡の赤玉石や伊予の青石、小豆島の御影石など寄港地の銘石がアイキャッチとして配されています。またこの庭園の作庭は、冬場に仕事にあぶれる東北の民衆への雇用対策として実施されたという時代の背景もあったとか。
『清遠閣』の1階座敷は藩主・酒井家の滞在した間、2階広間は昭和天皇の滞在した部屋…と庭園のビューポイントは色々ありますが、近代に増築され“大正ロマン”な雰囲気ただよう1階喫茶室ではコーヒーやお抹茶をいただきながらまったりと庭園を眺めることができます!
…と庭園メインで語ると後回しになる美術館も、多くの文化財(国指定重要文化財含む)級の美術工芸品を所蔵しておりめちゃくちゃ充実しています!
戦後の1947年(昭和22年)に開館し、1968年(昭和43年)に建築家・伊藤喜三郎の設計で新館が竣工。豪商だった本間家の蒐集品はもちろん、庄内藩主・酒井家、米沢藩主・上杉家から本間家に伝わったものも多いそうで、2023年夏期の展示で尾形光琳/与謝蕪村/池大雅/伊藤若冲/皆川淇園/円山応挙/長沢蘆雪/岸駒/原在中/頼山陽/井原西鶴/狩野探幽をはじめとする狩野派、歌川広重をはじめとする歌川一派…と主に京都/関西から庄内へと伝わった著名画家たちの絵画が一挙展示!庄内/酒田の名庭園、ぜひ一度訪れてみて。
(2013年7月、2017年7月、2023年9月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)