将軍・徳川家光にも重用された江戸時代の名僧・沢庵宗彭和尚が過ごした山形県指定文化財史跡に、“雑木の庭”創始者の造園家・飯田十基が作庭した露地/茶庭。
春雨庵跡/春雨庵庭園について
「春雨庵」(はるさめあん)は江戸時代初期の著名な僧の一人で“たくあん漬け”の考案者とも言われる禅僧・沢庵宗彭和尚が京都から出羽国・上山城下に流された際に住居とした草庵。「春雨庵跡」として山形県指定文化財(史跡)で、現在敷地内にある茶室“聴雨亭”、“望岳軒”には“雑木の庭”で知られる昭和を代表する作庭家・飯田十基作庭の露地・茶庭も。氏の作品として残る数少ない貴重な公開庭園。
“奥羽三楽郷”“日本のクアオルト”など名湯として人気のかみのやま温泉は、戦国時代の1535年(天文4年)に築城された『上山城』(月岡城)の城下町でもあります。江戸時代に立藩された上山藩は譜代大名の松平家や土岐家らによって治められ、春雨庵のような旧跡や武家屋敷、歴史ある寺院が残ります。
1609年(慶長14年)、30代半ばという若さで京都を代表する禅寺『大徳寺』の住持となった沢庵宗彭。そこから約20年後、すでに京都を離れ地元の但馬・出石の『宗鏡寺』で隠居生活に入っていた沢庵和尚ですが、「紫衣事件」で江戸幕府に反発するアクションを起こした結果、遠くの出羽国・上山藩へ配流されることに。
しかしその上山で沢庵を歓迎して厚遇したのが初代上山城主・土岐頼行。頼行が寄進した草庵を沢庵は気に入り、“春雨庵”と命名。土岐頼行自身も高僧だった沢庵に深く帰依し交流を深め、そのアドバイスは上山城下の整備など藩政にも活かされ、沢庵は現地の領民にも慕われたそう。
また現在の春雨庵から約1km/徒歩15分程の場所にある『浄光寺』の庭園は沢庵和尚の作庭と伝わります。
沢庵は春雨庵で3年を過ごし、幕府に許された後は江戸幕府三代目将軍・徳川家光から重用される程の存在となり、江戸・品川に建立された『東海寺』の開山として迎えられました。
沢庵が上山を離れた後も土岐頼行との交流は続き、沢庵も春雨庵を懐かしんだことから、頼行が『東海寺』の境内に“春雨庵”という塔頭を建立し土岐家の菩提寺と定めたそう。ちなみに現在は『春雨寺』となっていて、春雨寺の公式サイトによると塔頭寺院としての“春雨庵”は“しゅんぬあん”と読んだとか。
現在上山に残る茅葺屋根の「春雨庵」は1953年(昭和28年)に品川の春雨庵が改築される際に往時の建物の一部の材を譲り受け、江戸時代に春雨庵が存在した遺跡に復元したもの。なので県指定文化財となっているのはこの建造物ではなく「この場所」(跡地=史跡)ということになります。ただ当時のものが何も残っていないわけではなく、沢庵和尚が茶の水を汲むのに用い“山の井の水”と詠んだ井戸(春雨の井)が現存します。
敷地の一角にある茶室“聴雨亭”、“望岳軒”は茶人でもあった沢庵をしのび、昭和の東京で活躍した日本画家・石山太柏の設計で建築されたもの、またその茶庭・露地の作庭も昭和の東京を代表する造園家・飯田十基。
“雑木の庭”の創始者として現代の日本庭園界にも大きな影響を残す飯田十基さんですが、「現存し公開されている庭園」が実はとても少ない…。この春雨庵の庭も認知度は高くない印象ですが、現存する庭園としてはとても貴重なもの。2棟の茶室を繋ぐように池の流れが設けられいる構成、そして茶室との一体感。伝統的な露地のスタイルとも少々異なるデザインがめちゃくちゃ素晴らしい!
初めて春雨庵を訪れた時には、この場所が「京都の名僧ゆかりの場所」とも「飯田十基の庭園がある」こともつゆ知らず、Googleマップで「施設」のピンが立っているのが目に入ったところから。
飯田十基さんは自邸にも素敵な露地庭を作庭されていましたが、残念ながら2010年代に解体。春雨庵の庭園は本当に貴重な存在だと思うので、ぜひもっともっと多くの方に訪れて欲しい場所。なお茶室を設計した石山太柏さんも東京は杉並区・荻窪にゆかりがある方。他の茶室が残るならばぜひ追いたい存在…。
(2019年5月、2023年9月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)
アクセス・住所 / Locations
JR山形新幹線 かみのやま温泉駅より徒歩15分
かみのやま温泉駅・山形駅より路線バス「松山」バス停下車 徒歩2分
※仙台・山形駅からの高速バス「かみのやま温泉」バス停からも徒歩5分程。
〒999-3146 山形県上山市松山2丁目10-12 MAP