国指定史跡“萩城跡”の本丸に残る、藩主・毛利敬親と長州藩重臣・梨羽家ゆかりの茶室。藩主居館の庭園も。
花江茶亭(自在庵)・梨羽家茶室庭園について
「花江茶亭」(はなのえちゃてい)と「梨羽家茶室」(なしばけちゃしつ)は萩藩/長州藩を治めた大名・毛利家の居城『萩城』の本丸にある茶室。萩市指定有形文化財。かつて藩主が暮らした館の奥書院が存在した場所に移築されたもので、茶室から眺める庭園はその当時のもの。
2021年7月に約7年ぶりに萩へ。幕末の志士や明治維新後にも政治家として要職を務めた人材を多数輩出した萩。そのうちの一人、山縣有朋が椿山荘・無鄰菴など“山県三名園”を作り上げたバックグラウンドとして、萩の城下町は“庭園”が身近な存在であったことが影響している(のだと思う)。
…と言いつつ前回来た時は全然庭園って目線で巡ってなかったんだけど。2015年に『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』のユネスコ世界遺産にも登録された萩の城下町は偉人の武家屋敷や町家に多数庭園が残りますが、まずはお城から。
関ケ原の戦いに敗れ、それまでの中国地方の8カ国から周防・長門の2か国へと領地が縮小された毛利輝元。広島城に代わり1608年(慶長13年)に完成した新たな居城が「萩城」、通称・指月城。
明治維新後の廃城令で天守閣や櫓などの建物は取り壊されてしまいましたが、現在では「萩城跡」として国指定史跡、日本100名城や「指月公園」として日本の歴史公園100選にも選定。
>> 江戸時代中期に作庭された大名庭園“東園”についてはこちら。
廃城となった後、1879年(明治12年)に本丸跡に歴代藩主をまつる『志都岐山神社』が創建され、その8年後に城跡が都市公園「指月公園」として整備。2つの茶室が移築されたのもこの時期。外観と庭園が自由に見学できます。
■花江茶亭(自在庵)
まず茅葺屋根の方の茶室“花江茶亭”。幕末に萩藩/長州藩を治めた十三代目藩主・毛利敬親が三の丸にあった別邸“花江御殿”(川手御殿・常盤江御殿)内に1854年頃に造営した茶室(当初の名前は“自在庵”)で、敬親は藩士を招き茶会を催しながら、国策を画策していたとか。
そして1889年(明治22年)頃に品川弥二郎らが主導しこの地に移築。幕末期には松下村塾で学び、禁門の変・薩長同盟・戊辰戦争と歴史的な場に居合わせ、明治維新後は内務大臣をつとめるなど政治家として東京で活動していた弥次郎――茶室のバックグラウンドも、品川弥次郎が主導したことも、山口市の『露山堂』と全く同じ。(時期もほぼ同じ)
そう思うと露山堂と花江茶亭の移築事業はセットだったのかもしれない。現在の花江茶亭の前にある枯池の庭園は、本丸にあった藩主御殿の奥書院の庭園だったルーツがあるらしいのですが、茶室間を行き来する飛び石はおそらく茶室移築時に付け足されたもので雰囲気的には『露山堂』と同じ庭師・作庭家が手掛けているんじゃないかって想像。
■梨羽家茶室
中央の庭園を正面に眺めみる瓦屋根の茶室が“梨羽家茶室”。こちらは毛利家の重臣だった梨羽氏の別邸(武家屋敷)にあった茶室で、江戸時代中期の“花月楼形式”の優れた茶室――この“花月楼”式の茶室というのは松陰神社にもある。その時に改めて。
萩藩には年末のお城の大掃除の際、城主・毛利氏は城を出て重臣の別邸を訪れて休むという習慣があったそうで、そこから“煤払いの茶室”という別名も。
この2つの茶室の中央の庭園は、大名庭園“東園”とはまた違う趣の庭園で、築山の上には迫力ある三尊石やパックマンみたいな形の奇石も見える。池底は元々これぐらい浅かったのかなー、だとすると池泉庭園ではなく枯池式の庭園だったのかなあ。
庭園外の苔エリアにもおもむろに巨石や石灯籠、石造物が置かれてる。これらもおそらく茶室と一緒にこの地に来たものなんじゃないかな…。
注目したいのはソテツの脇にある“平たい石の上に長方形の石を乗せている”造形。こんな庭園見たことない!と思った防府市の名庭園『月の桂の庭』を思い出す。“東園”と共に、保存整備計画に期待!
(2021年7月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)
アクセス・住所 / Locations
JR山陰本線 玉江駅より徒歩25分
JR山陰本線 東萩駅より3km
JR山陰本線 萩駅より4.5km
萩駅・東萩駅より路線バス(循環バス)「萩城跡・指月公園入口」バス停下車 徒歩10分
※萩駅・東萩駅にレンタサイクルあり
〒758-0057 山口県萩市堀内1-1 MAP