紅葉シーズンのみ特別公開。新古今和歌集・小倉百人一首を編纂した歌人・藤原定家の小倉山荘跡に近代に作庭された露地庭園。
厭離庵庭園について
【通常非公開/紅葉シーズンに特別公開】
「厭離庵」(えんりあん)は京都・嵯峨野の平安時代末期~鎌倉時代の公家&歌人・藤原定家が小倉百人一首を編纂した“小倉山荘”の跡に創建された寺院/近代数寄屋建築。普段は非公開ですが、紅葉時期(11月初旬~12月上旬)に特別公開されます。2021年秋に初拝観。
先述の小倉百人一首のほか、新古今和歌集にも中心人物として携わった権中納言・藤原定家。小倉山荘はその晩年に用いられた別荘で、春になると洛中を離れこの山荘で花見や作庭を楽しんでいたとか。小倉百人一首の編纂も、この嵯峨野の別荘の障子色紙に和歌を一首ずつ揮毫して欲しい――という宇都宮頼綱の依頼から始まったもの。
その後は定家塚とその息子の為家塚のみの残して荒廃しますが、江戸時代中期の1736年(元文元年)に定家の子孫、公家の冷泉家により再興。白隠禅師の弟子の霊源により寺院として開かれ、1772年(安永元年)には嵐山の『鹿王院』の末寺に。“厭離庵”の名はこの時にに霊元天皇から授かったもの。
定家が詠んだ《小倉山 しくれの頃の 朝な朝な 昨日はうすき 四方の紅葉葉》《結びおきし 秋の嵯峨野の庵より 床は草葉の 露になれつつ》《見渡せは 花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮》という歌からも、当時から紅葉が美しく風流な場所だったと想像できる厭離庵。
また定家の歌にちなんだ“時雨亭”が江戸時代に整備されますが、明治維新前後には再度継続が困難な状況になり『大覚寺』の一部に。
そんな厭離庵を近代に再興したパトロン的存在が、貴族院議員で白木屋社長・10代目大村彦太郎(今の有名な白木屋ではなく、江戸時代創業・戦後まで続いた百貨店)。
1910年(明治43年)~大正時代にかけて仏堂に庫裏、本堂、書院、“待庵”“時雨亭”という茶室・茶席とその露地庭園が作庭され、現在見られる姿へと整えられました。その際に山岡鉄舟の娘・素心尼が住職として入り、以来臨済宗天龍寺派の尼寺となっています。
山門入ってすぐに石畳の園路と茅葺屋根の茶席が目に入り、境内全体が露地庭園といった風情。階段を登った先では書院の縁側に腰かけて、苔と紅葉の美しい主庭園を眺めることができます。高台からせり出した時雨亭もいい感じ。来秋はモミジが散りはじめる前に訪れたい。
(2021年11月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)
アクセス・住所 / Locations
JR嵯峨野線 嵯峨嵐山駅より徒歩18分
嵐電 嵐山駅より徒歩18分
阪急嵐山線 嵐山駅より徒歩25分
最寄りバス停は「嵯峨小学校前」バス停 徒歩10分
〒616-8427 京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前善光寺山町2 MAP