2022年に7年ぶり特別公開…作庭家/大名茶人・小堀遠州の集大成の茶室“忘筌”と露地庭、枯山水庭園…国重要文化財/国指定名勝。
大徳寺 孤篷庵庭園について
【通常非公開/撮影不可】
「孤篷庵」(こほうあん)は京都を代表する禅寺の一つ『大徳寺』の山内の最北西部にある塔頭寺院で、作庭家としても有名な大名茶人・小堀遠州が開基となり創建。小堀遠州自らが設計を手がけた茶室“忘筌席”や書院“直入軒”、方丈が国指定重要文化財、遠州作庭の『孤篷庵庭園』が国指定名勝となっています。
通常非公開ですが、2022年5月24日〜6月12日の期間で7年ぶりの特別拝観。大変賑わいました。自分も今回初めて拝観。写真撮影は不可なので門の写真しか紹介できないけれど、感想も含め紹介。
備中国や近江国で城主/藩主を務めた大名・小堀政一であり、今日では茶人・作庭家として有名な小堀遠州。庭園で名前を見る機会が多いから“作庭家”と言ってしまうけど、色んな茶室や駿府城・名古屋城などの作事奉行も務めた建築家でもある。建築にせよ庭園にせよ、桃山時代〜江戸時代の“売れっ子エグゼクティブ・ディレクター”的存在。
そんな遠州の庵号が“孤篷庵”、その名がつく菩提寺が今回特別公開された大徳寺孤篷庵。その歴史は江戸時代初期の1612年(慶長17年)、大徳寺の別の塔頭『龍光院』内に遠州が庵を建立したのがはじまり。その約30年後の1643年(寛永20年)に現在地に移転。
で、当初遠州により建立された建築は1793年(寛政5年)に火災で焼失…。茶室含め、今日見られる建築は1797〜1799年にかけて松江藩主・松平治郷(松平不昧)により再建されたもの。
…島根旅行で松平不昧以降の“出雲流庭園”や“不昧流茶室”を沢山見た状態だと、↑ここ結構重要な要素な気がしてて。現代のような詳細な設計図があったわけでも写真があったわけでもないので、再建された“孤篷庵”は小堀遠州:7、松平不昧:3…ぐらいの好みが混ざった空間なんじゃないかとも(今回、不昧公の筆による“潮音堂”のお軸も掛けられていた)。
本堂(方丈)とシンプルな一面の茶砂が印象的な“本堂前庭”を鑑賞した後、有名な茶室が“忘筌”(ぼうせん)へ。広縁の障子が半分の高さで吹き抜けになっていて、露地庭の姿が見える開放的な空間演出。また西向きで陽が落ちてくると縁側に反射して室内を明るくするという演出・仕掛けも(他にも色々。省略…)。床には狩野探幽の水墨画も。
その先に進むと書院“直入軒”と、松平不昧が『龍光院』内の遠州の茶室“密庵席”を元に作ったとも言われる茶室“山雲床”。その書院から眺められるのが遠州が故郷の“近江八景”を表現した枯山水庭園“近江八景の庭(直入軒前庭)”。
…各々の解説はWikipediaが書籍からの考察も含めまとまってて詳しいので、ここから主観も含めた感想。
別のタイミングで参加された方(京都の方)と話して、「赤土・茶砂の庭園って珍しいね」って話になった。やはり自分もそこが気になった。
解説された方によると『(京都の)紫野の土』と言うことなんだけど、それを“見せている”京都の庭園って珍しい。重森三玲の『東福寺 霊雲院』や『貴船神社石庭』など現代の庭園にはあるっちゃあるけど…。
“伝小堀遠州”の庭園は数あれど、誰かの為に作ったというより自らの為の空間に作庭した庭園で言えば備中高梁の国指定名勝『頼久寺庭園』があり、あそこも茶砂なので“遠州の好み”なのかなーとも思いつつ…、今回孤篷庵を見て思ったのは、孤篷庵で遠州と並ぶキーパーソンである松平不昧に関連した《出雲流庭園・不昧流茶室への、孤篷庵からの影響》という点。
出雲流庭園に茶砂が使われてることが多いのは単純に“出雲地域で産出される砂の色がそうだから(来待石とか)”だと思っていたし、出雲流庭園のスタイルは“沢玄丹が持ち込んだもの”だと思っていたけど、もしかしたら不昧公は孤篷庵にめちゃくちゃ影響受けて、それを地元に反映したんじゃないの?躙口が無く入口が大きい“不昧流の茶室”って孤篷庵からの影響なんじゃないか、と。
この辺はあくまで個人の主観・感想だけれど…『孤篷庵』に心から感動した人は備中高梁の『頼久寺』や、『菅田庵』をはじめとする松江〜出雲の茶室・庭園へ行くときっと面白いと思う。そして『孤篷庵』からの影響を出雲に持ち込み、それが現代になり昇華されたのが『足立美術館』の庭園だと思うので、「なんか有名な所でしょ…」と思わずにぜひ足を運んでみてほしいな〜。
(2022年5月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)