重要伝統的建造物群保存地区・若桜の町並みの水路と繋がる美しい水面の庭園。羽柴秀吉の部下・木下重堅の五輪塔も。鳥取県指定名勝。
西方寺庭園について
【要事前連絡】
「不遠山 西方寺」(ふおんざん さいほうじ)は国の重要伝統的建造物群保存地区・若桜町若桜の町並みの“蔵通り”沿いにある浄土宗西山派の寺院で、京都の紅葉の名所『永観堂(禅林寺)』の末寺。鳥取県指定名勝となっている庭園があります。
※観光寺院では無いので団体やグループ等での拝観はお断りしているとのことでしたが、個人での庭園拝観は許諾いただけました。希望の方は事前にご連絡を。
2021年9月に約5年ぶりに訪れた鳥取市から少し足を延ばして、初めて重伝建地区・若桜の町並みへ。鳥取駅から一部列車は若桜鉄道に乗り入れて若桜まで直通してくれるし、若桜までの路線バスもある。
戦国時代までは続日本百名城や因幡三名城にも名を連ねる山城・若桜鬼ヶ城(国指定史跡)の城下町として、江戸時代以降は鳥取から関西へと至る若桜街道の宿場町として栄えた若桜。
現在見られる赤瓦と裏の蔵通りの町並みは明治18年の大火の後に、地域内での取り決めによる都市計画の下で整備されたもの。
メインストリートの裏手になる“蔵通り”には西方寺のほかにも蓮教寺、正栄寺、寿覚院とお寺が立ち並ぶ寺町になっているのですが、このようのお寺の前に蔵を並べた景観は“お寺を火災から守るために蔵以外を建てることが禁止された”からだとか。お寺が街の防衛の為に集積している…とはよく聞くけどお寺を守る為の都市計画って初めて見たな。
この西方寺は若桜を代表する古刹で、室町時代の天文年間(1532年~1554年)には「寿命院 二尊寺」の名で若桜鬼ヶ城城主・矢部山城守の祈願寺となっていました。開基は俊空幸善上人で当時は天台宗、真言宗、律宗、浄土宗を兼ねる寺院だったそう。
矢部氏が戦国武将・山中幸盛により滅ぼされた後は荒廃しますが、羽柴秀吉の下で中国攻め~鳥取城の戦いに参加した木下重堅(荒木平太夫)が若桜城主になると祈願所として再興。西方寺となったのはこの時からで、関ヶ原の戦いの西軍として敗れた木下重堅の墓所(五輪塔)があります。
明治時代には先述の若桜の大火で境内・伽藍を焼失。その折に当時の章空運文上人が「不遠山西方精舎表裏眺望真景之図」を描き、現在見られる建造物(山門・本堂・庫裏など)はその図を下に明治時代以降に再建されたもの。
本堂・書院の裏手にある池泉鑑賞式庭園も江戸時代から存在したもの(コンクリート製?の橋とかは現在に建替えたものだと思うけど)。苔むした姿や山々の借景に庭石の感じ、訪れた時に青々していた植栽・モミジ…めちゃめちゃいいなと思って。
そして何より池がきれい!一見オーソドックスな池泉庭園なんだけど、“若桜の町並み”だからこそのこの庭園――というポイントがそれ。
若桜の町並みで、おそらく明治の都市計画以前からあったんだろうな…というのが、山から流れてくる清流の水路が街に張り巡らされているところ。(たまたまこの日がそうだっただけかもしれないけど、)歩いているとずっとトクトクと心地よい水音が聴こえるのです。
この西方寺の池泉も街の水路から注ぎ込んで、そしてまた街へと流れ出ていっている。だから水がきれいだし、近くで眺めていると水面にも動きがある。綺麗な池だから鯉が泳ぐ姿もより映える。
鳥取県の文化財になったのもつい最近(2016年)だし、観光寺院でも無いから全然情報が無い文化財庭園だったけれど――“この街にこの庭園”という成り立ち含め好き!と思った庭園。
(2021年9月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)