重森三玲の出世作&初期の代表作。星座を表現した“北斗七星の庭”や市松模様など多様な枯山水庭園。国指定名勝。
東福寺庭園“八相の庭”について
「東福寺」(とうふくじ)は室町時代に三代目将軍・足利義満によって定められた“京都五山”第4位に選ばれた京都を代表する寺院の一つで、臨済宗東福寺派の大本山。室町時代より残る三門は国宝に指定、それ以外にも数多くの国指定重要文化財の建造物を残しています。
その方丈に昭和年代に重森三玲によって作庭された枯山水庭園“八相の庭”は現代日本庭園の最高傑作の一つで、「東福寺本坊庭園」として国指定名勝。
これまで何度か訪れていますが、2020年6月・8月に再訪した時の写真を追加。
鎌倉時代、摂政や関白をつとめた九条道家(藤原道家)により九條家の菩提寺として創建された東福寺。当初から京の都最大の伽藍をほこったとされ、紅葉の名所として知られる“通天橋”を渡った先の『常楽庵』(開山堂・普門院)は国指定重要文化財となっていますが、この方丈は明治時代の再建。
そして建物を取り囲む様々なタイプの枯山水庭園は、造園家・重森三玲が1939年(昭和14年)に作庭されたもの。氏のキャリア初期に手掛けられた代表作の一つ。
個人的な履歴で言うと――庭園に興味を持ち始めたところで、東京・ワタリウム美術館で2011年に開催された『重森三玲 北斗七星の庭_展』を見たので、“枯山水庭園”というジャンルを知ったのが重森三玲みたいなところがあり。
それまでの時代の枯山水庭園を知らずに東福寺の庭園を見に行ったので『この作品が出てきた時に衝撃的だった』というような感覚ではないのですが、逆にものすごくシンプルに「市松模様の庭っていいな」みたいなそういう感覚。
“八相の庭”の名は、方丈を囲む四方の庭に表現された「蓬莱」「方丈」「瀛洲」(えいじゅう)「壺梁」(こりょう)「八海」「五山」「井田市松」「北斗七星」の八つのポイントを“八相成道”にちなんでつけられたもの。
その詳しい解説は、重森三玲の孫・重森千靑さん主宰の“重森庭園設計研究室”の監修で東福寺公式サイトに掲載されているのでそちらを見ていただくとして、ここでは簡潔に。
■東庭(北斗の庭)
先の展覧会の名前にもなった“北斗七星”が石柱により表現された枯山水庭園。
■南庭
星座を表現した斬新な“北斗の庭”の向かいにある南庭は、本坊庭園の中では最も古典的な雰囲気で、禅を感じさせる石庭。ここでは先の要素の中から蓬莱、方丈、瀛洲、壺梁、そして築山が五山を表しています。
要素の多さからもこの庭園が主庭と言える。あと“最も古典的な”と書いたけれど、石をここまで思い切って立てたり寝かせたりする表現は――その後重森庭園の特徴になる一方で、それまではない表現だったんだろう。
■西庭(井田の庭)
きれいな四角で刈り込まれたサツキを市松模様になるように配した庭園。ただ幾何学的なだけではなく、それが市松模様であること+苔~白砂で曲線を描くことで、洋ではなく疑うことなく和を感じさせる。
■北庭(小市松模様の庭)
そしてやっぱり大好きこの模様、苔と石板による小市松模様の庭。
今やこの姿こそが“東福寺本坊庭園”って感じがしますが、解説によると元々は「白砂と石板による市松模様」だったそうで、こんな苔庭ではなかったんだそう。近年、京都は猛暑で“苔がピンチ”と言われたりするので――いつか苔の維持の方が難しくなった時には、作庭当初の姿を復元されることもあるかもしれませんね。
作庭家としてはキャリアが浅かった重森三玲に当時のご住職が与えた条件は“本坊内にあった資材を一切廃棄することなくリサイクルして作庭すること”。前衛的な作風と思わせながらも、実はとてもエコな庭園だったんですね。
また“前衛的”と書いたけれど、それも「センスから生まれた」ものばかりではなく、「大量のインプットがあったからこそ生まれた」んだろう、ということを最後に書きたいと思います。この庭園が生まれたのは重森三玲が日本全国の庭園の実測を行った後のこと。当然それ以外の絵画やいけばなのキャリア・知識もそこにミックスされ“歴史を踏まえながら、これまでと違うこと”が出来たのだと思う。インプット大事。
東福寺周辺には、重森三玲による庭園が多く残されています。下記の「関連記事」からチェック!
(2012年1月、2015年3月訪問、2016年12月、2018年3月、2020年6月・8月。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)