大名茶人・上田宗箇が作庭し京都の庭師・清水七郎右衛門が改修した、広島藩主・浅野家の大名庭園。国指定名勝。
縮景園について
「縮景園」(しゅっけいえん)は安芸広島藩初代藩主・浅野長晟の別邸として江戸時代初期に造営された大名庭園。国指定名勝。当初の作庭を手掛けたのは大名茶人であり当時は広島藩の家老だった上田宗箇で、現在の庭園の姿は江戸時代中期に京都の庭師・清水七郎右衛門による大改修を経た後のもの。命名は林羅山。2021年春に約5年ぶりに訪れました。こんなに広い庭園だったっけ…!
“忠臣蔵”で有名な赤穂藩主・浅野家と同じ浅野長政を始祖とする広島藩主・浅野家。1619年(元和5年)に浅野長晟が入って以降、明治維新までの約250年間を12代に渡り治めました。
その翌年、1620年に浅野長晟により広島城の東部に造営された“泉水屋敷”(お泉水/泉邸)が縮景園のはじまり。作庭を手掛けた上田宗箇はそれ以前に同じ国指定名勝の『徳島城表御殿庭園』、『和歌山城西の丸庭園』といった現在に残る池泉回遊式庭園の名園を作庭。
江戸時代中期に広島を襲った宝暦の大火で荒廃した後、1783年(天明3年)から1788年にかけて京都の庭師・清水七郎右衛門により大改修。現在の庭園のシンボル的存在の石橋“跨虹橋”はその際に造営されたもので、上田宗箇の時代の遺構が見られるのは庭園中央から左手にいった場所にある園内最大の島と“超然居”の周辺。
昭和時代、戦前に浅野家から広島県へ寄贈(なので『広島県縮景園』という名称が用いられていることも)。太平洋戦争の原爆投下により全壊してしまったものの、徐々に復旧。
江戸時代末期に儒学者・頼山水(頼山陽の父)により記された『縮景園記』や同時代の絵図“縮景園山荘図”の中で描かれている数寄屋建築“清風館”、“悠々亭”、“明月亭”、“夕照庵”はその後約30年かけて再建されました。
敷地の大部分を占める大きな池“濯纓池”(たくえいち)を中心とした池泉回遊式庭園で、その中央を貫く“跨虹橋”(ここうきょう)が清水七郎右衛門に改修された際の主要ポイント。その池の中央からも、池の四方八方からもそれぞれの移り変わる風景を楽しむことができます。
7代目藩主・浅野重晟がこだわった“跨虹橋”は現代風にも見えるけど文化年間(1800年代前半)の絵図にも現在とほぼ同じものが描かれていて、頼春水の縮景園記も重晟の命により記されたもの。
この時、堀南湖による初代『縮景園記』から倍の数になるは34箇所が園内名勝として命名(縮景園三十四景)。それぐらいビューポイント/見所も多い…長くなりそうなのでそれぞれの説明は割愛!冒頭の写真はそのうちの一つ、園内で最高峰の“迎暉峰”から眺めたもの。
なおこの『縮景園記』、『頼山陽史跡資料館』でフリーペーパー的に配布されていました(2021年春時点)。先にこちらをゲットした後縮景園へ行くとより楽しいかも…。唯一、名前は出てくるけど存在しないのが“流芳軒”(茶室?)。園内西、調馬場のあたりにあったとか。
2020年に築庭400年を迎えた縮景園。400年特設サイトでは作庭家・斎藤忠一さんの解説や戦前や終戦直後の貴重な映像(動画)もアップされています。併せてチェック。
ふと思うのは、広く公開がはじまる前の江戸時代の絵図や戦前の映像が個人蔵で残っているのは、浅野家が所有した時代から比較的“市民に開かれた場所だった”ことも影響しているんだろうなあ、と(そのような記録があったから、憂き目に遭っても元通りにすることができた)。一人でも多くの人の目や記憶に残ることの大切さ。
(2014年8月、2016年7月、2021年4月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)