かつて吉田松陰/高杉晋作/伊藤博文らが同じ時を過ごした世界遺産の史跡。江戸千家・川上不白が設計した毛利家ゆかりの茶室“花月楼”も。
松下村塾・松陰神社について
「松下村塾」(しょうかそんじゅく)は明治維新の影の立役者・吉田松陰が主宰した私塾。世界遺産“明治日本の産業革命遺産”にも構成され、隣接する松陰の実家『吉田松陰幽囚ノ旧宅』とともに国指定史跡。
「松陰神社」(しょういんじんじゃ)は吉田松陰のほか松下村塾で学んだ高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋など当時の塾生を祭神として祀る神社。
2021年7月に約7年ぶりに萩へ。幕末の志士や明治維新後に政府の要職を務めた人材を多数輩出した萩。そのうちの一人、山縣有朋が椿山荘・無鄰菴など“山県三名園”を作り上げたバックグラウンドとして、萩の城下町では“庭園”が身近な存在だったことが影響している(のだと思う)。
…と言いつつ前回来た時は全然庭園って目線で巡ってなかったんだけど。2015年にユネスコ世界遺産『明治日本の産業革命遺産』にも登録された萩の城下町は偉人の武家屋敷や町家に多数庭園が残ります。
萩城を中心に見ると城下町の東端の郊外にある松下村塾。その歴史は幕末の1842年(天保13年)、松陰の叔父・玉木文之進により開業。後に藩校・明倫館の塾頭として経験を積んだ松陰が松下村塾を引継ぎました。時の松陰、28歳。
松下村塾=吉田松陰のイメージが強い割に松陰が松下村塾を率いたのは1年半ほど。その短い間に先に挙げた高杉・伊藤・山縣も他にも久坂玄端、渡辺蒿蔵…などを指導し幕末~明治維新で活躍した人物を多数輩出しました。
■松下村塾
境内の中心部に建つ、幕末から残る平屋の木造建築。これが世界遺産と言うと不思議な感じもするけど、この決して広くない室内で教えを請うた若者たちが日本の近代化に尽力。室内には上がれませんが、吉田松陰の石膏像・肖像画が残されています。
■吉田松陰幽囚ノ旧宅
松下村塾と並んで建つ、塾より大きな平屋の木造家屋。こちらも幕末からこの地に残る建築で、吉田松陰の父・杉百合之助の旧宅。松陰が松下村塾で教えはじめる最初の謹慎中を実家でもあるこの邸宅の一室で過ごしたことから、「吉田松陰幽囚の旧宅」として国指定史跡となっています。
■松陰神社
明治維新からしばらく経った後の1890年(明治23年)に実家・杉家に、松陰を祀る小祠が建立。その後の1907年(明治40年)、新政府で出世した伊藤博文ら松下村塾出身者により小祠を前身とした正式な神社が創建されました。
現在の本殿は戦後の1955年(昭和30年)に建立されたもの、本殿と並ぶ『松門神社』は旧社殿を移したもので、松陰の門下生が祀られています。
■茶室“花月楼”
神社境内の一角にある茶室。これは松下村塾とは直接は関係ないものの、長州藩主・毛利家ゆかりの茶室で山口県指定有形文化財。
元は江戸時代中期の1776年(安永5年)に七代目藩主・毛利重就が三田尻の別邸『英雲荘(三田尻御茶屋)』内に建立したもの。その建築構造が表千家の七代目・如心斎に学んだ茶人で江戸千家の初代・川上不白の設計図により建てられ、萩藩重臣の『梨羽家茶室』も“花月楼形式”の茶室(写し?)。
毛利重就が没後は萩藩の茶人・竹田休和の手に渡り萩市平安古の武家屋敷に移され、明治時代には松下村塾門下生で新政府でも活躍した品川弥二郎が取得し保存、そして1959年(昭和34年)に現在地に移されました。品川弥二郎は『花江茶亭』、『露山堂』にこの茶室…と毛利家ゆかりの茶室マニア感ある。
境内にはその他に松陰のことをより詳しく知りたい人向けの『吉田松陰歴史館』や2009年に新たに整備された宝物殿『至誠館』、直近では2018年に明治維新150年を記念した“学びの道”が整備されるなど世界遺産になってよりパワーアップ。
最後に、松陰神社の鳥居の前には『松洞園』という小さな庭園があります。こちらも松下村塾の門下生で吉田松陰の肖像画を描いた画家・松浦松洞の生誕地に整備されたもの。あわせてチェックしてみて。
(2021年7月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)
アクセス・住所 / Locations
JR山陰本線 東萩駅より徒歩15分
JR山陰本線 萩駅より約3km
萩駅・東萩駅より路線バス(循環バス)「松陰神社前」バス停下車 徒歩2分
※萩駅・東萩駅にレンタサイクルあり
〒758-0011 山口県萩市椿東1537 MAP