銀閣寺御用達庭師・田中泰阿弥に修復された、江戸時代に新発田藩主・溝口家の御殿に作庭された大名庭園。国指定名勝。
清水園(清水谷御殿庭園)について
「清水園」(しみずえん)は、江戸時代に新発田藩主・溝口氏の命により造園された池泉回遊式の大名庭園。同じく新発田市内にある『五十公野御茶屋』と合わせ、『旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園および五十公野御茶屋庭園』の名で国指定名勝となっています。
2021年11月、5年半ぶりに訪れました!今回が3度目だったけど、なんか…こんなに良い庭園だったっけ…これまでは自分は雑に庭園を見ていたんだなあ…と思いながら。改めて紹介。
加賀・大聖寺から溝口氏が入ったのは1598年。そこから江戸時代を通じて新発田の城下町は溝口氏が治めました。清水谷御殿が造営されたのは江戸時代初期の1658年頃、三代目藩主・溝口宣直の時代。その後、四代目・溝口重雄の時代に江戸幕府の遠州流の茶道方だった縣宗知(あがたそうち)を新発田に招き庭園が作庭されました。なお先述の五十公野御茶屋の庭園も縣宗知によるもの。
その庭園は近江八景を表現しながら、珍しい『水』の字型を描いた池泉回遊式庭園のほとりには5つの茶室(桐庵、夕佳亭、翠濤庵、同仁斎、松月亭)があります。これまで訪れた時は茶室のことにあまり興味がなかったのだけど、大阪の『中之島香雪美術館』の茶の湯の展示で溝口家の名前があったこと、そして改めて庭園に5つも茶室が配されていることについて考えると、茶室すべてが清水園のビューポイントだったんだろうと。
そう思いながら庭園をゆっくり巡ると、それぞれに景色作られていることを実感する。なお、茶室の内部は通常非公開ですが、不定期で公開イベントを実施されています(清水園のSNSで告知されるのでフォロー推奨!)。
現在は新潟市の『北方文化博物館』の分館の一つとして運営されています。これは廃藩置県・版籍奉還後、溝口氏の手から離れたのちに荒廃が進み、そこに手を差し伸べたのが『北方文化博物館』の豪農・伊藤文吉だったため。
近代のパトロン――財閥系や鉄道王、銀行王がよく取り沙汰されますが、地域によってはこのような大地主も近代のパトロンとして文化を守るために活躍していたんだな、ということがわかります。
昭和年代にこの庭園の修復に取り組んだのは、新潟県出身で京都の世界遺産『銀閣寺』の出入り庭師となった田中泰阿弥。氏は地元・新潟のみならず東京などでも素晴らしい庭園を残しています。清水園の現在の一部は田中泰阿弥による改修を経たものもそのまま残されており、氏の作風――を庭園の中から見つけ出すのも面白いかもしれません。
また門の外には『足軽長屋』や忠臣蔵の中心メンバー・堀部安兵衛の伝承館もある“郷土資料館”、駐車場の一角に旧新発田藩武家屋敷『石黒家住宅』があります。新発田藩の重臣としても記された石黒門三郎家、元は新発田城三ノ丸を取り囲む旧八軒町にあり、北方文化博物館によって保存のため現在地に移築されました。こちらの紅葉もきれい!
(2011年4月、2016年4月、2021年11月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)