明治時代に造営され、大正天皇・昭和天皇・上皇陛下も度々訪れ利用した皇室の別邸…“旧沼津御用邸苑地”として国指定名勝。
沼津御用邸記念公園・西付属邸/旧沼津御用邸苑地について
「沼津御用邸」(ぬまづごようてい)は明治時代に造営され昭和中期まで皇室・皇族の静養の場として利用された別邸。現在は『沼津御用邸記念公園』として一般公開されており、2016年には『旧沼津御用邸苑地』として国指定文化財(国指定名勝)となりました。日本の歴史公園100選。
2022年7月に約6年ぶりに訪れました!あの時は大雨で急ぎ足で見たんだけど、今回改めて訪れるとめちゃくちゃ広くて見応えあるなと…。写真も多くなったので「西附属邸」と「東附属邸」を分けて紹介します。
ここでは入場受付やバス停から近い「西附属邸」とその庭園を紹介。
その歴史について。1893年(明治26年)に当時皇太子だった大正天皇のご静養のために造営が開始。駿河湾に面し富士山も望むこの地は景色も良く気候も温暖で、先に西郷従道/大山巌/川村純義といった陸海軍の大臣の別荘が建てられていたそう。川村純義は後に昭和天皇の養育係もつとめました。
景勝地としても知られた“千本松原”の中を縫うように造営された沼津御用邸。現在見学できる「西附属邸」と「東附属邸」の間にも広大な園地が広がりますが(その中に『沼津市歴史民俗資料館』も)、元はこのスペースに一番最初に建築された「本邸」が存在しました。
残念ながら本邸は太平洋戦争の空襲で焼失。本邸に付随する洋館は片山東熊・河面徳三郎が担当していたそう。本邸と「東附属邸」の間には防空壕の跡も残ります…それを思えば西附属邸・東附属邸が被害を受けず、明治時代の建築を和風建築を今に伝えるのは不幸中の幸いとも言える。
本邸焼失の後は西附属邸が本邸の役割を果たしていましたが、1969年(昭和44年)に沼津御用邸は老朽化などもあり廃止。幼少期や皇太子時代から沼津御用邸に滞在する期間が長かった昭和天皇・皇后両陛下は最後の年にも訪れ、お別れの時間を過ごしたそう。そんな昭和天皇と共に現在の上皇陛下もたびたび沼津を訪れていました。
廃止の翌年1970年には沼津市に無償で貸与され、都市公園「沼津御用邸記念公園」として開園。先の老朽化については平成年代の1993年〜98年に再整備が行われて現在に至ります。
で、ここから「西附属邸」について。「附属邸」という名前だけれど、めっちゃくっちゃ広い…。日本各地には新旧多くの別荘があるだろうけど、「附属屋」がここまで広い別荘はさすがに無いかも。
本邸・東附属邸に次いで1905年(明治38年)に後の昭和天皇のために設けられた西附属邸。その一部は元々は前述の川村純義伯爵の別荘として建てられていたものなので、建築年代は更に古い。
その別荘を買い上げた上で順次増築を重ね、1922年(大正11年)に御玉突所(ビリヤード場)の増築をもって現在の姿となりました。
その部屋数は26、平屋建ての建築の広さは1,270平方メートル。庭園みたいな広さの単位。全体的には純和風建築で、近代和風建築によくある数寄屋風の凝った意匠…とかはほぼ見られないのですが、シャンデリアなど洋風のインテリアで飾られた“謁見所”、庭園に面しソファーの置かれた“御座所”等からはその格式の高さが伝わってくる!
西附属邸から駿河湾へ向けて庭園が広がります。ザ・日本庭園というよりは比較的シンプルな庭園で…海の中の島々を表現するかのような庭石が配されてはいるけれど、それらの主張も強くなく(唯一、温暖さを感じさせるソテツだけ主張が強め)、松林の景観を最大限に活かつつ、松林越しに駿河湾〜対岸の山々をのぞむ眺望が重要視された庭園。 公式サイトの昭和年代の写真で見ると建物の前はも少し芝生の広場って感じだったのかな。
なお2016年に文化財指定を受けた際に名前が「庭園」ではなく「苑地」となったのは、建築から眺められる庭園だけでなく、松林や駿河湾の眺望といったランドスケープ全体、貴重な御用邸の石積なども含め評価・保存の対象となったため。
明治時代の和風建築も重要文化財級の価値がきっとあるんだろうけど、国指定名勝で公園全体を保護することで建築も対象になっている…的な事例です。
(2016年9月、2022年7月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)
アクセス・住所 / Locations
JR東海道本線 沼津駅より路線バス「御用邸」バス停下車 徒歩2分
JR沼津駅より約4km(駅前&御用邸前にシェアサイクルのポートあり)
〒410-0822 静岡県沼津市下香貫2802-1 MAP