京都/日本の代表的な寺院“本願寺”。世界遺産の境内に残る国宝/京都三名閣“飛雲閣”を写す“滴翠園”と本願寺大書院庭園“虎溪の庭”が国指定文化財庭園。(通常非公開)
西本願寺大書院庭園“虎溪の庭”/ 飛雲閣庭園“滴翠園”について
【庭園は通常非公開/時々特別拝観あり】
「本願寺」(ほんがんじ)は世界遺産「古都京都の文化財」にも構成される京都を代表する寺院。京都駅前/京都タワーの向こう側にある『東本願寺』に対し、やや西側に位置するこちらは『西本願寺』(にしほんがんじ)の通称で呼ばれています。多くの国宝を有し、通常非公開の庭園『本願寺大書院庭園』(虎溪の庭)が“庭の国宝”こと国の特別名勝に指定、また金閣・銀閣と並び“京の三名閣(京都三名閣)”と称される国宝“飛雲閣”の庭園“滴翠園”も国指定文化財(国指定名勝)。
2つの国指定文化財庭園は通常非公開ですが、春(5月頃)や秋(10月頃)に不定期で特別拝観が催されます。2023年5月、親鸞聖人850周年に合わせて特別公開が実施。これまで3度訪れた中で初めて庭園の写真撮影も可だったのでその際の写真を紹介。
まず本願寺の歴史について。浄土真宗の開祖・親鸞聖人の入滅の後(死後)にその弟子たちにより建立された「大谷廟堂」がそのルーツ。鎌倉時代の末期に三代目の門主となった覚如上人の頃に『本願寺』を名乗るようになりました。戦国時代には大坂の『石山本願寺』が織田信長と石山合戦を繰り広げるなど国内の一大勢力に。
その石山合戦での敗戦を経て、織田信長の次に天下人となった豊臣秀吉から京都の堀川・六条〜七条の地を与えられて桃山時代に建立されたのが現在の通称『西本願寺』。
秀吉が亡くなり、豊臣家と徳川家との対立が激化するのと同時に本願寺内でも11代目門主・顕如上人とその子・教如上人が対立、関ヶ原の戦い後に実権を握った徳川家康が『西本願寺』の真東の京都の烏丸・六条〜七条の土地を教如上人に寄進して建立されたのが『東本願寺』。
そのような経緯で西と東に分裂し現在に至りますが、“お西さん”の方が少々時代が古いこともあり、江戸時代初期から400年以上の歴史ある建築が比較的多く残ります(唐門、御影堂、阿弥陀堂、書院、“日本最古の能舞台”と言われる北能舞台などが国宝)。書院の特別拝観時には豪華絢爛な障壁画や欄間の彫刻が見られますが、撮影は不可。飛雲閣の内部の姿などの写真は西本願寺の公式サイトにて。ここでは2つの庭園のみ詳細を補足。
■飛雲閣庭園“滴翠園”(国指定名勝)
西本願寺境内の最南東部(右下端)にあるのが国宝の『飛雲閣』。冒頭にも書いた通り、金閣・銀閣と共に“京の三名閣”と並び称される京都を代表する楼閣建築の一つ。その特徴は左右非対称&三層のデザインで、一つ一つ異なる窓のデザイン、二層に描かれた三十六歌仙の絵柄など、随所に見られるこだわりが桃山文化〜江戸時代初期の和風建築のマスターピースの一つ。近代以降の和風建築にもその影響を与えています。
なお、詳細の建築年代やその背景はまだ不明な点が多く色んな“諸説ある”状態なのですが、そのうちの一つには“豊臣秀吉が聚楽第に建立した遺構”という説も。(そして近年は秀吉が聚楽第の後に築城した『京都新城』の遺構という説も)
そんな名建築を囲むように作庭された庭園が「滴翠園」(てきすいえん)。飛雲閣を水鏡として写す滄浪池を中心とした池泉回遊式庭園で、船着場が残る通りかつては船で対岸から飛雲閣へと移動していたとか。向かって左手に見える茶室は“憶昔”(いじゃく)、最も右手側にある高床の柿葺寄棟造りが「黄鶴台」。
■本願寺書院庭園“虎渓の庭”(特別名勝)
文化財のクラスとして飛雲閣よりも高いのが書院庭園“虎渓の庭”。国宝の書院に面する枯山水庭園で、建築と同時期の桃山時代~江戸時代初期の作庭。その時代の京都の枯山水庭園として最も豪壮な作品で、京都の代表的な枯山水庭園の一つにも挙げられます。その名の通り、中国の景勝地・廬山とその渓谷・虎渓が表現されていることから。
作者にこの時代の代表的な作庭家・小堀遠州…の名は挙がらないものの、氏が関わった『圓徳院庭園』等と近しい雰囲気は感じ取れる。
こちらの庭園を特別拝観する際には国宝・書院も合わせて鑑賞する形になりますが、白書院・黒書院ともに豪華な襖絵/障壁画/天井画の数々を目の当たりにする格別な時間を過ごせること必至。また同時に鑑賞する「北能舞台」も桃山時代(1581年)の建築で、日本に現存する最古の能舞台といわれます。ぜひ次の特別拝観の機会をお見逃しなく。
(2016年10月、2021年9月、2023年5訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)