世界遺産の城郭に残る、小堀遠州作庭の“二之丸庭園”に明治天皇が作らせた”本丸庭園”、そして中根金作の“清流園”。
二条城庭園について
「二条城」(にじょうじょう)は江戸時代の初めに徳川家康により築造された城郭で、世界遺産“古都京都の文化財”にも構成。地図などの正式名が「元離宮二条城」と表記されるのは、この地で徳川慶喜が大政奉還したのち明治時代には皇室の離宮(二条離宮)になった時期もあったため。
庭園のうち“二之丸庭園”は小堀遠州の作庭と伝わり、国の特別名勝に指定されています。また現代に中根金作により作庭された“清流園”という池泉回遊式庭園も。2019年夏に3年半ぶりに訪れました!さすが世界遺産の城郭、真夏だけど人が多かった…。
徳川家康の命で築城された当初存在した、伏見城から移された天守閣は江戸時代の中頃に焼失。それでも現在も残る二の丸御殿は国宝、そのほか外周の隅櫓、東大手門、北大手門、豪華絢爛な唐門などなど22棟の建造物や二の丸御殿の狩野派により約1000面の障壁画が国指定重要文化財となっています。二の丸御殿について書き始めると長くなりそうなので割愛して庭園の話を中心に。
二の丸御殿の前に広がる“二の丸庭園”は二条城と築城とともに当初作庭され、その後三代目将軍・徳川家光の時代である寛永3年(1626年)後水尾天皇を迎える際に小堀遠州により現在の庭園の原型に改修されたそう。
大名庭園のような規模の回遊式築山泉水庭園でありながら、池泉に鶴亀の島・蓬莱島といった中の島を配している点や滝の石組からその世界観は(大名庭園で多く見られる)の景色を表現したものではなく神仙蓬莱の世界を表していると言われています。その後、8代将軍・徳川吉宗の時代に一部改修されたり、幕末には荒廃したり、明治~大正の二条離宮時代に迎賓館的に植栽に手を加えられたり――そんな歴史を経て今の庭園の姿が出来上がりました。
順路を進んでいくとやはり国重文となっている本丸御殿があり、その前に“本丸庭園”が広がります。現在の本丸は京都御所内にあった『旧桂宮邸』の御殿を明治天皇の命により移築したもの。当初は徳川家光の時代に本丸御殿(と庭園)が造営されたそうですが、天守閣とともに江戸時代中期の1788年の大火で焼失。現在の本丸庭園は明治28年(1895年)に明治天皇が訪れた際に元あった枯山水庭園から改修を命じ、翌1896年に掛けて築庭されたもの。
本丸庭園は当初から現在のように芝生が敷き詰められていたようで、芝生を庭園に用いる近代日本庭園の潮流の初期の事例と言えそう。ちなみに(明治天皇と勿論交流のあった)山縣有朋が芝生を取り入れ『無鄰菴庭園』を造営したのも1894-96年。天守閣跡からは本丸庭園と京都の山並みが一望できます。
順路を更に進むともう一つ“清流園”という日本庭園があります。こちらは昭和40年(1965年)に、『足立美術館』庭園の作者である昭和の名庭園家・中根金作により作庭されたもの。
庭の周辺に点在する『香雲亭』、茶室『和楽庵』は江戸時代初期の京都の豪商・角倉了以の屋敷から移築されたもので、庭園の中にも譲り受けた庭石などが用いられているそう。ちなみにかつて角倉了以邸があった場所に最も近い庭園が山縣有朋の第二無鄰菴こと『がんこ高瀬川二条苑』。…あと公式サイト読むと明治に小川治兵衛(七代目?)が手を入れてるなんて記述もありますね。どの辺のことなんだろう。
和楽庵は茶房としてオープンしており、普段は非公開の「香雲亭」もお茶会やお食事会、ウェディングなどで用いられています。香雲亭はまだ近づいたことがないので…次回訪れる際にはそういったタイミングを見計らって訪れたい!その他、近年の二条城はイベントや展覧会、ライトアップなど様々なことを開催されています。ロケーション変えて色んな時期に訪れたい。
(2009年3月、2016年3月、2019年8月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)