掛川藩御用達が江戸時代に築き明治天皇が御宿泊された座敷から眺める庭園と、文化財のお屋敷の修復過程も感じられる近代和風建築。掛川市指定文化財。
松ヶ岡(旧山﨑家住宅)庭園について
【毎月第4土曜日に一般公開】
「松ヶ岡」(まつおがおか)は東海道新幹線からも天守閣の見える城郭『掛川城』城下町に残る豪商のお屋敷/近代和風建築。「松ヶ岡(旧山﨑家住宅)」として掛川市指定文化財で、明治天皇の行在所となったお座敷を囲むように庭園があります。
2016年(平成28年)に掛川市の文化財となり、2024年現在も絶賛建物・庭園の復元/修復が進む松ヶ岡。常時公開ではありませんが、毎月第4土曜日のみ一般公開され、修復後〜または修復真っ只中の文化財建築の様子を見ることができます。
ずっと訪れるタイミングを逃していたのですが、2024年に初めて訪問。それに先駆けて庭園専門誌『庭NIWA』にて日本庭園協会技術委員長・清水哲也さんによる松ヶ岡庭園の修復の様子のレポートも掲載されていました。
戦国時代には大名・今川氏や徳川家康が領有し、のちに土佐・高知城主となった山内一豊が城主の時代に整備された城郭『掛川城』。その城下町は江戸時代には東海道の宿場町・掛川宿としても栄えました。
この松ヶ岡の施主・山﨑家は江戸時代には掛川宿で油問屋/葛布問屋を営み、掛川藩の御用達として藩の財政を支えました(『竹の丸』の松本家と全く同じ)。そんな山﨑家からは掛川銀行を設立し、初代掛川町長として街のインフラの近代化に尽力した実業家・山﨑千三郎や、東京帝国大学教授として後の大蔵大臣を育てた経済学者・山崎覚次郎を輩出。
そのお屋敷は江戸時代後期の1856年(安政3年)/安静の大地震後に建築された主屋・長屋門と、明治時代に増築された奥座敷・風呂/便所棟、そして江戸〜昭和期に掛けて順次増えていった蔵から構成されます。
1878年(明治11年)の明治天皇の北陸東海御巡幸の際には主屋の表座敷(玉座)に滞在。欄間の美しい富士山の彫刻が目を引きます。長屋門の横には「明治天皇掛川行在所」の石碑も。さらにその後に増築されたのが「奥座敷」。アーチ型の天井の廊下がカッコいい近代和風建築…!
そして約5,300平方メートルの半分以上を占めるのが庭園。「松ヶ岡」の名もお庭・屋敷を囲む十数本あるアカマツ林が由来。
主屋とともに江戸時代後期に作庭されたと伝わりますが、主座敷の前の京都・鞍馬石の沓脱石や大きな踏分石、そして点在する一風変わった石灯籠などは“近代の日本庭園”の特徴が感じられるので、明治天皇の行在の際にも手が加えられたのかも。また江戸時代よりあったお堀が庭園の池になっている姿も歴史を感じさせます。(現在は枯池)
現状はまだ「修復中」なので、常時公開の庭園の様なきれいな姿…という訳ではありませんが、原型がカッコいい=修復された後に素晴らしいお屋敷の庭園がよみがえることが想像できる…!今訪れるならば、モミジが多いので初夏の新緑や晩秋の紅葉の庭園がオススメ。
この歴史的なお屋敷も2012年には取り壊す意向が示されたとか。現在は市民が力を合わせて日々の掃除に取り組まれており、将来的にすべての修復が終わった後の一般公開を目指されています。興味ある方はそのビフォー・アフターのビフォーの姿も見てみて。
(2024年2月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)