西郷/大久保/木戸の維新三傑や三条実美、伊藤博文、山縣有朋らも好んだ老舗旅館の七代目小川治兵衛の庭園。国登録名勝。
松田屋ホテル庭園について
【事前電話確認】
「松田屋ホテル」(まつだやほてる)は山口市・湯田温泉で創業300年以上の歴史をほこる老舗旅館。幕末~明治維新期に訪れた三条実美/西郷隆盛/大久保利通/桂小五郎らの旧跡も残る日本庭園は2016年に国登録記念物(名勝地)となりました。作庭は近代京都を代表する作庭家・七代目小川治兵衛(植治)。
2021年7月に約5年ぶりに訪れたのでその時の写真を更新。由緒ある旅館、泊まるにはなかなかハードルが高いのですが、施設側の都合が問題ない時間帯(主にチェックイン時間帯前)は庭園のみの見学も受入れていただけます(※2021年7月時点)。事前に電話でお聞きしてみてください。
その歴史は江戸時代初期の1675年(延宝3年)の創業と古く、当時の“松田屋旅館”は幕末の1863年には三条実美ら七人の公卿が一時京都を追われ長州~九州へと逃れた“七卿落ち”の際の滞在場所となったり、その後1867年には薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀、長州藩の木戸孝允・伊藤博文・広沢真臣の会合の場にも。
坂本龍馬や高杉晋作も滞在し、当時の貴重な資料やアイテムは“明治維新資料室”に展示されています。
明治維新後にも長州出身の政治家とは縁が深く、庭園に面した和風建築“快活楼”(かいかつろう)と“群巒閣”(ぐんらんかく)はそれぞれ山縣有朋と伊藤博文の命名。伊藤博文の自筆による「履信居仁」という扁額は館内ロビーに掲示されています。
現在見られる庭園は1918年(大正7年)頃に山縣有朋の力添えにより、七代目小川治兵衛(植治)のチームにより大きく改修されたもの。ということは“快活楼”もほぼ同一の時期の建築なんだろう(建物は外から見ても新しく感じる所があるのでその後耐震などで改修されているのだろうし、だから文化財じゃないんだろうけど)。
それ以前は江戸時代中期に作庭された素朴な枯山水庭園があったそうですが、植治によって“流れ”を中心とした流水回遊式庭園へと生まれ変わりました。
2021年に訪れたのは3回目だったのですが、↑この事を頭に入れた上で改めて庭園を見ると。
これまでは何となく庭園の入口近く(司馬遼太郎の記したアカマツ)からが最も庭園の奥行きを感じるな~と思っていたけど、正しいビューポイントは入口及び最初の石橋の右手にある“快活楼”からだと言うこと。よく見たら文化遺産オンラインの写真はそこからだ(いいな~2階)。
そう思うと山縣有朋+小川治兵衛の京都『無鄰菴』と建物と庭園の関係がよく似ているようにも感じる。異なる点を挙げるならば、無鄰菴にはない豪快な“大滝”がこの庭園があること。快活楼から正面ではなく、西郷・木戸・大久保会見所(南洲亭)の脇に大滝を配したのはその旧跡を尊ぶ気持ちからなんだろうか。
あと個人的に気になるのは足湯“桂亭”脇の小滝にかかる、たくさんの小石による石橋(17枚目)。同じスタイルの石橋が『山水園』にもあるんですよね。山水園は植治作庭ではないけど、地元の同じ造園屋さんが関わったりしていたのかなあ。
…ここから少しだけ推測及びメモ。
・尼崎博正先生の著書『七代目小川治兵衛』の年表を見ると、植治は大正時代に山口の“鋳谷別邸”という場所で庭園を作庭している。
・「山口 鋳谷」でググってほぼ唯一引っ掛かる特定の人物は「鋳谷正輔」という人。山口出身で造船業で活躍した実業家。⇒Wikipedia
・山水園は当初は「大正時代に造営された個人の別荘」。それが誰かはわからないけど、上に書いた石橋は大正時代に先に造られた庭園にあるもの。
もし山水園の庭園が、植治が携わった鋳谷別邸だったら――?
まあ現段階ではメモに過ぎないんですが。この当時は(京都では幾度と植治とタッグを組んでいる)近代京都の代表的建築家・武田五一も山口県庁舎を手掛けたりしていて、その辺の繋がりや流れも気になる所。
いつかちゃんと松田屋ホテルに泊まってより庭園を堪能したい!後世に残したい憧れの旅館の一つ。
(2015年9月、2016年8月、2021年7月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)
アクセス・住所 / Locations
JR山口線 湯田温泉駅より徒歩10分
JR山口線 山口駅より約2.5km(山口市内にシェアサイクルあり)
路線バス「湯田温泉通」バス停より徒歩1分
〒753-0056 山口県山口市湯田温泉3丁目6-7 MAP