東京・江戸の園芸文化の面影を感じさせる、俳人・正岡子規が過ごした町家の庭園。東京都指定史跡。
正岡子規旧居“子規庵”について
「子規庵」(しきあん)は明治時代を代表する俳人・文人である正岡子規の旧居。東京都指定史跡。
正岡子規は明治27年(1894年)、27歳の時に元は旧加賀藩主・前田侯爵家が広大な屋敷をかまえていた場所の一角であるこの地(前田家の御用人の長屋)に移り住み、その住居を“子規庵”と名付けました。
子規は35歳という若さで亡くなられましたがその家族がこの地に住み続け、太平洋戦争の空襲で一度は焼失するも子規の門弟・寒川鼠骨により再建され現在に至ります。
2019年5月に初めて訪れました。すぐ向かいには同じく東京都指定史跡の『台東区立書道博物館』(画家・中村不折の旧宅)があり――実は目的はそちらだったのですが、正岡子規の旧居もこんなところにあったんだと思って。
“子規庵”では子規が亡くなるまでたびたび友人や門下を招いた句会・歌会をたびたび催された場所ですが、中村不折とも親交が深かったようで、不折渡欧送別会は子規庵で開催されたそう。
そう、今は鶯谷=歓楽街というイメージですが、鶯谷〜日暮里の“根岸”界隈は近代までは文人墨客も数多く住んだ閑静な場所だったそう。寺社も割とあるし夏目漱石ゆかりの「羽二重団子」やなんかも。
ラブホ街になったのはざっくり言うと…戦後のドサクサ(笑)。一応根岸には花街もあったみたいだけど必ずしもそこがルーツという訳ではないみたい。北九州・小倉の森鴎外旧居なんかも歓楽街のど真ん中にあるので…「そういう傾向でもあるんだろうか、菊地成孔も歌舞伎町だし…」とか想像したけど、根岸界隈・子規庵に関してはそういうわけではないと。
決して大きな建物ではありませんが、正岡子規がたびたび歌った庭園(小園)が残ります。
いわゆる日本庭園――といったものとは異なり、園芸・ガーデニングを楽しむお庭といった趣き。公式サイト等の文献によるとかつては建仁寺垣があったり、借景に上野公園の高台が眺められたというので全く日本庭園的要素がなかったかというとそうではないはず。正岡子規はその植物のお手入れが日々の創作意欲の一つであったとか。
現在お庭の一角には、正岡子規が死の間際、最後に読んだ“絶筆三句”の一つ
“糸瓜咲て 痰のつまり 仏かな”
の石碑も立ちます。子規はヘチマが好きだったようで。
江戸の園芸文化はすごかった、という話は色んな人からお聞きする。
残念ながら東京に居た頃そこは掘り切れずに東京を離れてしまったのだけれど――きっと江戸の町家にも小規模ながらその植物を楽しむ“お庭”スペースがあったのではと思うのです。知らんけど。『堀切菖蒲園』とかはその代表的な存在なのだと思うし。
子規自身は決して東京の滞在歴が長かったわけではないし江戸を生きたわけではないけれど、このお庭はそんな“園芸文化”の発展を感じられるお庭の一つなんだろう、と思います。東京も立派な庭園都市だと僕も思う。
(2019年5月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)