
《江差の五月は江戸にもない》…北前船船主&松前藩の役人として成功した江差の豪商・関川家が幕末〜明治時代に造営した別荘・庭園。江差町指定有形文化財。
旧関川家別荘・庭園について
【冬季休館】
「旧関川家別荘」(きゅうせきかわけべっそう)は北海道檜山郡江差町の北前船船主が残した近代和風建築。建築が江差町指定有形文化財で、建築と同時期(江戸時代末期〜明治時代初期)に作庭された日本庭園も残ります。
昨年訪れた『にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)』で、北海道の北前船関連のお屋敷として紹介されていて知った旧関川家別荘。2025年に初めて訪れました。
江差線の廃線後、どうやって行くんだろう…?なんて思っていた江差ですが、(本数は多くないけれど)北海道新幹線・新函館北斗駅からの都市間バスで割とサクッと辿り着けた…!
その歴史について。江戸時代中期(1712年頃)〜明治時代の半ば(1900年頃)まで約200年の間「江差の豪商」「松前藩一の豪商」として名を馳せた関川家。元はその苗字の通り?、越後国の頚城郡「関川郷」の出。下越/村上市の隣の関川村ではなく、上越/妙高市・妙高高原の関川(国指定文化財庭園『旧関山宝蔵院庭園』から近いエリア)。天和年間(1681年~1684年)に初代・関川与左衛門が松前藩・松前城下(福山城下)に移住。そののち江差に居を移し、造り酒屋や廻船問屋として(特に幕末〜明治にかけては北前船の船主として)成功を治めます。
江差に移住後は松前藩から「沖の口業務」(ざっくり言うと港を管理する役所)を任され、商人として成功を収めるのと並行して、江戸時代〜明治時代にかけて江差港の近代化(防波堤の設置など各種工事)や、学校や病院の建設に私財を投じるなど近代的なまちづくりに貢献を果たします。
江差の北前船について触れておくと。《江差の五月は江戸にもない》という言葉が残る程、ニシンの出荷シーズンの5月(旧暦)は多忙を極めるほど繁盛していたのだとか。(江差には関川家以外にも国指定重要文化財の『中村家住宅』等の旧家が残されています)
そんな関川家の8代目・関川平四郎が江戸時代末期〜明治時代初期に造営した別荘が今日残る「旧関川家別荘」(本宅はレトロな街並みの残る「いにしえ街道」エリアにあったそう)。施設名としては建築がメインだけれど、建築(主屋/土蔵/付属屋=長屋門のような外観の建物)の周りに広がる約10,600平方メートルの庭園(公園)もその時代に作庭された庭園!
豪商らしく関川家は文化人として活動した当主もおり、六代目・関川与左衛門は「砂山」、先述の八代目・関川平四郎は「一鼎」「蓼窓」と名乗る俳人としても知られていたそう。なのでこの別荘の主屋には「蓼窓庵」と名付けられ、現在も室内にはその書が掲げられています。更に床の間には松前藩10代目藩主・松前章広の書も…!(そのガラス戸の感じは近代に入ってから改修をされている感じ)
主屋の前に広がる池泉回遊式庭園。主屋から見て手前には池泉、奥には緩やかな築山を配して、そこに「この庭園の中心」を表すように石が立てられている。(向かって右手奥の築山には、もう少し複雑な石組も)。そして左右・中央にそびえるマツの高木がその歴史を感じさせます。各ポイントからは周囲の山々も眺められる、建築と調和した素敵なお庭…。
気になるポイントを挙げるとすると、このお庭の影響はどこからなのだろうなぁという点。他の「北前船船主」の庭園(例えば先述の小樽『にしん御殿 小樽貴賓館(旧青山別邸)』や酒田『本間家旧本邸』、加賀『北前船の里資料館』など)って、「石!」(カラフルな飛び石!)が印象的なお庭が多い。けど、このお庭は石がそこまで主張していない…。
歴史で言うと函館の近代の日本庭園(国指定文化財庭園『香雪園』など)よりこの「関川氏庭園」の方が古そうだし、今回同時に訪れた松前の庭園とも少し違う印象を受ける。公園(『えぞだて公園』という名称)として公開されるにあたって改修されたのかもしれないけど。いずれにしても北海道の貴重な古庭園!
この別荘の造営から割とまもなく、明治30年代には江差から東京へと拠点を移された関川家。蔵には関川家が江差に残していった調度品/工芸品/古文書などが展示・保存されています(関川家が所有した北前船「利宝丸」の額も)。古伊万里焼の展示を見て、北前船の時代の交易の広さを実感。
江差の中心部(いにしえ街道)には前述の国指定重要文化財『中村家住宅』や、近代の洋館『旧檜山爾志郡役所(江差町郷土資料館)』など歴史的/レトロな建築が多数残ります。建築・歴史目当てで江差にぜひ訪れてみて。
(2025年5月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)
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