
東尋坊の玄関口・三國湊。松尾芭蕉の門人・各務支考の流れを汲む俳人・岸名昨嚢がルーツの商家の“かぐら建て”町家のお庭。瀟洒な意匠も残る建築が国登録有形文化財。
旧岸名家/三國湊まちなか案内所について
「旧岸名家」(きゅうきしなけ)は『東尋坊』の玄関口でかつて北前船で栄えた港町・越前国三国湊に残る江戸時代後期に建築の町家(町屋)。「旧岸名家住宅」として国登録有形文化財で、緑の美しい庭園/中庭があります。隣接する町家『三國湊まちなか案内所』のお庭もあわせて紹介。
戦国武将・柴田勝家ゆかりの国指定文化財庭園の寺院『瀧谷寺』からは徒歩10分ほど。古くから日本海沿いの港町として発展し、江戸時代後期〜明治時代には北前船の寄港地として/また福井の内陸へ結ぶ九頭竜川の河川舟運と繋ぐ物資の集積地として繁栄した三国。
えちぜん鉄道・三国駅〜三国港駅の間の広範囲にレトロな古い町並みが残っていますが、かつての商業の中心地・旧森田銀行本店近くで広く公開されている町家施設が旧岸名家(2004年から公開)。
三國湊で代々材木商を営んでいた新保屋岸名惣助の店舗兼住居として江戸時代末期の天保年間に建てられたこの邸宅(その後、明治〜大正時代に増築)。一見よく見る町家のようで、妻入りの前方に平入の表屋を付けたこの建築様式は「かぐら建て」と呼ばれるこの地域独特のもの。トオリニワと帳場のある店の間から始まり、奥に座敷と中庭がある“うなぎの寝床”のような作りは各地で見られる構造と近しい。
また江戸時代中期の岸名家初代・新保屋岸名惣助は松尾芭蕉の門人・各務支考の流れ(美濃派)を汲む俳人であり、岸名昨嚢を名乗り自ら「日和山吟社」を立ち上げ初代宗匠となりました。おそらく近代に改築された、ちょっと洒脱/瀟洒な作りの2階の座敷では立机式(宗匠の就任式)の並びが再現されています。三国ゆかりの文学者のコーナーも。
そして庭園について。飛び石と灯籠、大きなマツと紅葉のシンプルな構成ですが、苔むした姿とモミジの新緑が美しい庭で座敷からぼんやり眺めていたくなる。そしてシンプルな中で大きく育ったマツがこの庭園の歴史を伝えます。
そして隣接する『三國湊まちなか案内所』にも同じく町家の庭が残ります。中央に伽藍石(庭伽藍)が配され、近代以降の京都からの影響も。三国を訪れた際には滝谷寺とあわせてチェックしてみて。
(2023年4月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)
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