国重要文化財の寺宝を下賜した後柏原天皇、“鳴虎”の由来・豊臣秀吉、報恩寺で最期を迎えた武将・黒田長政ゆかりの寺院の枯山水庭園。
“鳴虎”報恩寺庭園について
【通常非公開/京の冬の旅2022で特別公開】
「堯天山 仏牙院 報恩寺」(ほうおうじ)は豊臣秀吉の都市計画により寺院が集められた、上京区の“寺之内”に位置する浄土宗の寺院。その豊臣秀吉も好んだ虎の図から“鳴虎”(鳴虎 報恩寺)の愛称でも知られます。
常時拝観の寺院ではありませんが、『京の冬の旅2022』で特別公開。先日初めて拝観しました。
…建物の中に入ったのは今回が初めてだったんだけど、ずーっと気になってて何度か境内の前庭まで訪れて「見られないかな~」と思ってました。
京都市公式の観光情報「京都市観光Navi」では以前から《拝観には事前に要予約》って表記だったので、2019~2021年の間にも何度かお電話したことがあり…残念ながらいずれも断られていた。なので今回ようやく見られて嬉しい。
その歴史は室町時代にさかのぼります。現在地に移転する以前は一条高倉、現在の『京都御所』の北東、現在の“猿ヶ辻”のあたり?に位置し、国宝として有名な狩野永徳『洛中洛外図屏風』でも“ほうおん寺”と描かれました。
当初は浄土宗の他にも天台宗・真言宗など8つの仏教を学ぶ八宗兼学の寺院だったそうですが、後柏原天皇の勅旨により1501年(文亀元年)に再興(⇒応仁の乱の戦災から?)された際に浄土宗寺院に。
現在地に移転したのは桃山時代に入って以降の1585年(天正13年)。寺之内通りを挟んで北側にはいずれも庭園のある『妙顕寺』、『本法寺』、『妙蓮寺』、そして同じく今回の京の冬の旅で特別公開された『興聖寺(織部寺)』も。
“鳴虎”について。この虎の掛け軸は元は後柏原天皇から下賜されたもので、作者は中国・宋~明時代の画家・仁智殿四明陶佾。
秀吉はこの画を大いに気に入り、報恩寺をたびたび訪れた末に「ゆっくり鑑賞したい」と言って『聚楽第』に持ち帰ったものの、その聚楽第で夜中に虎が鳴いたことから翌朝には返され、秀吉が発した“鳴き虎”という言葉が称号として用いられるようになりました。
今年が寅年だったから今回の京の冬の旅にも選ばれたんかな。尚、京の冬の旅とはまた別で、寅年の元旦~三が日にはこの鳴虎図の特別公開と寺宝展が開催されるそう。次回は2034年。
この鳴虎図と同じく後柏原天皇から下賜された快慶作と伝わる御本尊の阿弥陀三尊像、今回特別展示された大黒天像、地蔵菩薩像、そして平安時代末期の作とされる鐘楼“撞かずの鐘(勿撞の鐘)”が国重要文化財に指定されています。今回の特別公開では織田信長・豊臣秀吉の肖像画の展示も。
秀吉ともう一人、報恩寺と縁深い戦国武将が初代福岡藩主・黒田長政。1623年(元和9年)の上洛の際に報恩寺を宿舎としたものの、この時に持病発作のため報恩寺客殿にて逝去。
その時の客殿および伽藍は享保の大火・天明の大火で焼失し、現在見られる建造物は1818年(享和元年)以降に再建されたものですが、客殿には長政最期の部屋も復元されています。そのほか少年期から徳川家康を支えた武将・阿部正勝の菩提寺でもある。
庭園はざっくり分けて前庭/客殿(方丈)前の主庭・枯山水庭園/そして客殿と広間の間にある中庭と3箇所。
主庭、中庭の石造物はもしかしたら桃山時代の移転や江戸時代の再興の時から存在するものもあるかもしれない――けど、主庭は1975年・1982年の航空写真では無いように見える、そして1987年の時点では存在するように見える。
そんな現代・昭和年代の枯山水庭園である主庭はすぐ近くの『妙蓮寺庭園“十六羅漢石庭”』と近い作風。石庭の中にそびえる印象的な石標には“南無阿弥陀仏”と書かれているそう。その文字を読ませる為にあの位置に配しているわけではないんだろうから、重要な(由緒ある)石標なんだろうな~って。
内庭は鯉の泳ぐ池泉を中央に置きつつ、広間から待合・客殿へと向かうように飛び石が配された憩いと安らぎの回遊式庭園。
2022年の特別拝観は桜の季節を待たずに3月18日で終わりだけど、前庭はこれからの時期ミツバツツジや桜がきれい。
あと境内東側の石橋(現在は川が埋め立てられてるので欄干だけが“橋っぽさ”を伝えてる)も秀吉の侍尼・仁舜尼により寄進された由緒ある石造品だったり。特別公開が終わってもまたぜひ立ち寄ってみて。
(2021年3月、2022年3月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)