本阿弥光悦が過ごした芸術村の面影を残す庭園。光悦好みの竹垣“光悦垣”や、数多くの茶室の中には木村清兵衛や小川治兵衛が携わったものも。
光悦寺庭園について
「光悦寺」(こうえつじ)が建つこの地は、江戸時代初期に芸術家であり「琳派」の創始者・本阿弥光悦が徳川家康から与えられた鷹ヶ峰の麓の9万坪の土地の一部。
本阿弥光悦はその土地に当時の文化人や芸術家を集め、芸術村(光悦村)を開きました。その中でも、現在の光悦寺の境内に「法華題目堂」というお堂を建てたのが始まりとされ、このお寺のいわゆる禅寺とは違う庭園風景はその頃の面影を残している…?とのこと。
寺院として創建したのは光悦の死後の江戸初期なかばで、境内には光悦の墓所も残ります。
芸術村だった場所の一部として別途『しょうざんリゾート』の苔の美しい日本庭園がありますが、そちらが完全に山の麓の庭園だとすると光悦寺は高台の上にある庭園。境内からは二方・三方を山に囲まれ、それらを借景としつつ鷹峰三山の自然を間近に眺められ、「翹秀軒」「本阿弥庵」付近からは眼下には京都市内の街並みを見下ろすことができます。
先の建築を含め、境内には7つもの茶室が点在しています。いずれも近代(大正時代)になってから新たに建てられたものですが、中でも「大虚庵」が光悦が晩年を過ごしたとされる場所に建った茶室で、それを囲うように独特の菱形の竹垣「光悦垣」が見られます。茶室の中には数寄屋大工の名工・木村清兵衛が手掛けたものや、七代目小川治兵衛(植治)が作庭した露地も。
光悦垣という名前は本阿弥光悦がこのデザインを好んだことが由来だそう(発明した、というわけではないみたい)。
今回訪れたのが9月だったけど、すでに一部色づいているモミジ系の木も。紅葉期にはより美しいんだろうなあ。光悦寺から歩いてすぐのところに、「悟りの窓」「迷いの窓」や枯山水庭園の見られる寺院『源光庵』があります。
(2018年9月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)