清洲城庭園

Kiyosu Castle Garden, Kiyosu, Aichi

新幹線の車窓からの姿も印象的。織田信長が居城とし、清洲同盟/清洲会議でも日本史に名を残す城郭と、現代の造園家・岡田憲久作庭の日本庭園。

庭園フォトギャラリーGarden Photo Gallery

清洲城庭園について

「清洲城/清須城」(きよすじょう)は戦国大名・織田信長が天下統一へ向け歩みをはじめた初期の居城。現在の天守閣(天主閣)は平成年代の始めに再建されたもので、その周囲には現代の造園家・岡田憲久の設計による日本庭園(枯山水庭園/池泉回遊式庭園)があります。

JR東海道新幹線/東海道本線からも見える清洲城。いつか立ち寄りたいな…と思っていたのですが、2022年8月に初めて訪れました。

織田信長の居城としてだけでなく、信長と徳川家康が同盟を結んだ「清洲同盟」、信長亡き後の「清洲会議」などで日本の歴史に名を残します。なのでここで書くまでもないけど歴史についてもざっくりと…。

室町時代の1405年(応永12年)に管領・斯波義重により築城された尾張守護所『下津城』の別郭がその前身とされます。その後1476年に下津城は戦乱で焼失すると清須城が新たな守護所に。
やがて織田家が尾張国を統一/掌握。桶狭間の戦い前の1555年に織田信長が『那古野城』から清須城へ入城、ここから桶狭間の戦いへ出発するなど天下取りへの足掛かりとしました。(織田家の中でも権力争いがあった話は割愛)

信長が清須城を居城としたのは約10年間でその次は小牧山城・岐阜城・安土城…と拠点を替えていきますが、清洲の町は引き続き美濃路や伊勢街道が合流する宿場町としても栄え。信長以降も息子の織田信忠織田信雄豊臣秀次福島正則、そして松平忠吉(徳川家康の四男)、初代尾張藩主となる徳川義直(徳川家康の九男)…と名だたる武将/大名が城主を歴任。
しかし江戸時代に『名古屋城』が尾張藩の城郭に定まると城下町ごと移転(清洲越し)、廃城となり取り壊されました。名古屋城には清須城の古材を再利用した「清洲櫓」も(国重要文化財)。

現在の清洲城は1989年(平成元年)に清洲町の町制100周年を記念し「ふれあい郷土館」として鉄筋コンクリート造で再建したもの。城内ではかつての清須城と城下町・織田信長や清洲会議に出席した当時の武将に関する各種展示が見られます。
なお実際の城跡とされるのは大手門前の橋を隔てた場所にある『清須古城跡公園』。緑の茂る公園内には信長を祀るお社や石碑が残ります。

清洲城では大きく分けて3つのタイプの庭園が見られます。

①天守閣(この施設では天主閣と表記)の前に広がる重森三玲風な石庭。
②書院御殿をイメージした「芸能文化館」前に広がる枯山水庭園。
③芸能文化館の向かいに位置する池泉回遊式庭園。

作庭を手掛けられた岡田憲久さんは愛知県や東海地方を中心に作品を残されている方(これまで紹介した庭園では三重県指定文化財『蓑虫庵』の一部など)。特段、重森三玲との繋がりはなさそう…?なんだけど、①の石庭は天主閣から見下ろすと『岸和田城庭園“八陣の庭”』を意識しているようにも感じるし、(歩いてる時はピンと来なかったけど)園路もデザインされた曲がり方をしている。

そして池泉回遊式庭園の築山の上でカーブを描くコンクリートの水路なんかもう、ほんと重森三玲的な作風。岡田さん、当初は京都で修行をしていた…と経歴にあるけれど、重森三玲に近しい所だったのかな?
②の書院前の庭園はもう少しオーソドックス(京風)の枯山水庭園。

天主閣前の石庭は大小10の石で構成されます。9つに見えるけど中央の立石は小さな石で支えられていて…最初は中央の石が織田信長かなと思っていたけど、清洲会議で三法師を抱える羽柴秀吉豊臣秀吉)にも思える。2023年は来場者が増えそうな清洲城、庭園にもぜひ注目してみて。

(2022年8月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)

アクセス・住所 / Locations

JR東海道本線 清洲駅より徒歩15分
名鉄名古屋線 新清洲駅より徒歩14分
東海交通事業城北線 尾張星の宮駅より徒歩15分

〒452-0932 愛知県清須市朝日城屋敷1-1 MAP

投稿者プロフィール

イトウマサトシ
イトウマサトシ
Instagram約9万フォロワーの日本庭園メディア『おにわさん』中の人。これまで足を運んで紹介した庭園の数は1,900以上。執筆・お仕事のご依頼も受け付けています!ご連絡はSNSのDMよりお願いいたします。
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