大名・山内一豊が天守閣を築いた“掛川城”。その茶室は数寄屋建築の巨匠・中村昌生、日本庭園協会名誉会長・龍居竹之介作庭と現代の大御所による空間。
掛川城・二の丸茶室庭園について
「掛川城」(かけがわじょう)は戦国時代には大名・今川氏や徳川家康が領有し、のちに土佐・高知城主となった山内一豊が城主の時代に整備された城郭。現在の木造天守閣は現代(1990年代)に復元されたものですが、二の丸にある「二の丸御殿」(掛川城御殿)が国指定重要文化財。それに隣接する「二の丸茶室」の庭園は日本庭園協会名誉会長・龍居竹之介さんの作庭。
JR東海道新幹線からの車窓からも天守閣の姿が見える掛川城。その歴史は室町時代中期の1490年代までさかのぼると言われます。
築城からしばらくは駿河国/遠江国を治めた大名・今川氏の領地でしたが、桶狭間の戦いで今川義元が討たれた後に徳川家康が攻め徳川家の領有に。
豊臣秀吉が天下統一を果たし、徳川家康が東海地方から江戸を中心とした関東6カ国へ移されると、掛川城には秀吉の家臣だった山内一豊が入城。現在のような天守閣や大手門が築かれたのは山内一豊の時代で、合わせて城下町も整備されました。
江戸時代に入り山内一豊が高知に移されると松平家、井伊家、小笠原家などの譜代大名が掛川藩五万石を治め、1700年代以降は太田道灌にルーツを持つ太田氏が7代/約150年間に渡り掛川藩主をつとめました。
国指定重要文化財となっている御殿は、安政東海地震で倒壊した後に6代目藩主・太田資功によって1855年〜1861年に再建されたもので、廃城令の後も残されたこの御殿は「城郭に附属する御殿建築として現存する貴重な例」です。
1994年(平成6年)に山内一豊の時代の天守閣が復元され、次いで2002年(平成14年)に天守閣の麓に新築されたのが『二の丸茶室』。
近年では将棋の王将戦の会場にもなり、藤井聡太王将の“おやつ”に何が出たか…ということでもたびたび取り上げられますが、本来的な目的としては日本有数のお茶の産地でもある掛川の「掛川茶」を、お抹茶やお煎茶などの茶事を通じていただける場として開館。
そして、実はこの二の丸茶室の庭園・建築には現代日本の“大御所”が関わっています。まずその建築は全国に茶室を和風建築を残されている京都の数寄屋建築/茶室研究の巨匠・中村昌生さんによる設計。庭園と掛川城をのぞむ広間や、藩主・太田家の家紋にちなんだ四畳半の小間「桔梗庵」、立礼席を備えています。施工は福清商店・林清兵衛さん。
なお中村昌生さんはこのお茶室について《秀吉は、大阪城にも伏見城にも「山里丸」を設け、そこに茶室を建てた。私はこの二の丸に山里の一境をつくり、そこに茶室を建てることを考えた》と記し、庭園側から小間「桔梗庵」へと至る園路は世界が変わって“山里”を感じさせる園路になっています。
庭園は日本庭園協会名誉会長・龍居竹之介(龍居庭園研究所)さんによる設計。アプローチは北山台杉の姿など京風ながら、広間の前は芝生の広がる開放的な空間。山裾に井戸と滝石組、そこからの“流れ”が天守閣とともにこの庭園のアイキャッチに。作庭者が《その見方は自由です。》と伝えるお庭は、掛川城を訪れる老若男女の数多くの方々が憩う場にもなっています。
その他、和モダンな外観の『二の丸美術館』もさまざまな企画展が行われており、見どころの一つ。2024年に天守閣再建から30年の記念の年を迎える掛川城にぜひ訪れてみて。
(2018年7月、2024年2月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)