玄甲舎(旧金森得水別邸)庭園

Genkosha Garden, Tamaki, Mie

“続日本100名城”田丸城代・久野家家老&茶人・金森得水が京都“表千家不審庵”を再建した名工を招き造営した数寄屋建築と庭園。玉城町指定文化財(史跡)。

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玄甲舎(金森得水別邸・茶室)庭園について

「玄甲舎」(げんこうしゃ)は江戸時代の武家&茶人/歌人・金森得水の旧別邸・茶室。その建築は、茶道表千家の『不審庵』を江戸時代後期に再建した数寄屋の名大工・庄五郎により造営され、唯一現存する作品。令和元年に復元された庭園(茶庭)も鑑賞することができます。復元を手がけたのは『足立美術館』の庭園の作者としても知られる中根金作の興した京都・中根庭園研究所

三重県度会郡玉城町…の知名度は高いとは言えないかもしれませんが、伊勢市のすぐお隣の町。JR田丸駅すぐの場所には伊勢本街道が通り宿場町の面影を残す街並みが残り、また熊野古道などとも交差する交通の要衝でした。

かつての中心『田丸城』は続日本100名城にも選定。戦国時代以前は伊勢国司・北畠氏ゆかり、戦国時代には織田信長の子・織田信雄、江戸時代に入ってからも譜代大名や紀州徳川家の支配下に置かれた田丸城とその城下は「伊勢神宮の抑え」としての役割もあったそう。そんな田丸城の程近くには朝日新聞創設者であり「甲子園の生みの親」村山龍平の生誕地もあります。

紀州徳川家の家老兼、田丸城主(城代)をほぼ江戸時代全期に渡りつとめたのが久野家。そんな久野家(久野丹波守)に仕えた家老・金森得水の別邸兼茶室が今回紹介する玄甲舎。JR田丸駅から徒歩3〜5分とすぐの場所にあります。

金森得水は家老として田丸城下を治める久野家を支えた一方で、茶道、文人、国学者としても名の知れた人物だったそう。茶人としては千宗佐に学び表千家の最高位・免許皆伝を受け、書道・和歌は明治天皇の師範をつとめた有栖川宮幟仁親王に、国学は本居宣長の弟子・本居大平に学び…その文化・教養の高さに加え、藩内に留まらず、松阪や京都での人脈の広さも感じさせます。
更に全国の陶器を研究した書物はその筋では重要な書らしい、水泳も得意で「得水」の号はそこから…とエピソードが多才すぎる!!

そんな得水が玄甲舎を造営したのは幕末の1847年(弘化4年)。当初は現在の田丸駅構内を含む約3,000坪という広さをほこったそう。
近代、駅設置のために金森家は土地を無償提供。この玄甲舎は現代にかけて老朽化が進んだものの、京都の数寄屋建築の巨匠・中村昌生さんにより「京都で表千家不審庵を再建した名工・庄五郎の貴重な作品」として発見され、氏の主宰した京都伝統建築技術協会と安井杢工務店さんにより修復。2020年から玉城町有・玉城町の文化財施設として一般公開されています。

「別邸兼茶室」という位置付けから、プライベートスペースもそこそこに半分以上がお茶のための空間(広間/小間)な玄甲舎。得庵はたびたびここで茶会を催し名士たちと交友を深めていたそう。

またその茶室から眺める庭園も当時の図面を元に復元されたもの。『足立美術館』の庭園の作者としても知られる中根金作が設立した中根庭園研究所による調査・設計の下で、手掛けたのは地元・三重の橋本庭松園さん。一面の苔の中に飛び石が配された茶庭でもあり、庭園の奥に組まれた緩やかな築山・石組は往時はその先に広がる国束山系の山並み(借景)へと連なるデザインだったとか。また所々「亀」がモチーフになっている玄甲舎、手前の石灯籠〜手水鉢の足元の敷石も亀甲のよう。

玄甲舎見学の後は、隣接するカフェ『cafe & space 七十二候』のスイーツが100円引きというサービスも。むしろこのカフェの方が地域では人気スポット…!?こちらも新しいカフェで、目の前には参宮線が行き来する姿も楽しめます。お伊勢まいりの際に、江戸後期の多才な文化人&京都の名工の残した茶室・庭園にぜひ立ち寄ってみて。

(2024年9月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)

アクセス・住所 / Locations

JR参宮線 田丸駅より徒歩3分
JR・近鉄 伊勢市駅から路線バス「田丸駅前」バス停下車 徒歩3分

〒519-0414 三重県度会郡玉城町佐田151-9 MAP

投稿者プロフィール

イトウマサトシ
イトウマサトシ
Instagram約9万フォロワーの日本庭園メディア『おにわさん』中の人。これまで足を運んで紹介した庭園の数は2,000以上。執筆・お仕事のご依頼も受け付けています!ご連絡はSNSのDMよりお願いいたします。
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