明治維新後、江戸幕府15代目将軍・徳川慶喜公が約20年暮らした屋敷跡に残る池泉回遊式庭園。作庭は小川治兵衛。
浮月楼・徳川慶喜公屋敷跡について
「浮月楼」(ふげつろう)はJR静岡駅のほぼ駅前にある料亭・結婚式場で、江戸幕府第15代目将軍・徳川慶喜が大政奉還の後に暮らしていた屋敷のあった場所。また現在も一部残る池泉回遊式庭園は小川治兵衛による作庭。
※以前結婚式等が行われていない時にはフロントで申し出れば庭園散策ができたのですが、2019年春にお聞きした際にはレストラン利用が必須になっていました。
元々この地は江戸時代から徳川幕府の代官屋敷があった場所。大政奉還後、明治維新を迎え謹慎の身となった徳川慶喜公は元の領地である水戸からこの駿府に遷され、そして渋沢栄一が用意したこの屋敷に移りました。慶喜公はこの場所に約20年住まわれ、自転車・写真撮影・油絵・狩猟などの趣味を楽しまれたとのこと。めちゃめちゃ健全。
その後明治時代の中頃に慶喜公は静岡市内の別の場所に転居し、この屋敷は料亭「浮月楼」として開業。近代には伊藤博文、西園寺公望、井上馨、田中光顕、岸信介、芥川龍之介などなど政財界・文人などの大物が訪れたそう。
現在も残る池泉回遊式庭園の作庭は京都の名庭師・小川治兵衛によるもの。ちなみにこれまで完全に「7代目小川治兵衛(植治)」による作庭と思っていましたが、作庭に取り掛かられたのは慶喜公がこの屋敷で暮らした明治初期(7代目の植治はまだ少年期)。Wikiにある通り、その父親の6代目小川治兵衛による作庭?と推測されます。
近年リニューアルした浮月楼の公式サイトの「浮月楼について」ページ内に明治〜昭和中頃までの浮月楼の写真が掲載されています。慶喜公が暮らしていた頃の庭園は今と比べて池泉も大きく、そして今は無い大きな築山があって――本当に東京(江戸)の大名庭園のようだったんだなあ。
昭和の戦災や区画整理で現在の庭園は作庭当時と比べだいぶ小さくなっているようですが(あと近年、池の上に舞台が配されたので――庭園目線で見ると少し景観的にマイナス)、現在も慶喜公お手植えの台湾竹や小松宮彰仁親王から贈られたとされる灯籠などが残ります。また池のほとりに建つ「子福稲荷神社」も江戸時代からあったものとのこと。
また料亭になって以降の昭和初期には建築家・吉田五十八も一部設計に携わったとのこと。五十八による建物は戦災で焼失してしまったそうですが、現在の「明輝館」はその設計方針を活かして再建されたもの。静岡県内に残る他の吉田五十八建築「東山旧岸邸」も素晴らしい建築だったので惜しまれる…。
ちなみに慶喜の側近として大政奉還・静岡移住などに尽くした関口隆吉の邸宅があった場所には『太田道灌築造嵯峨流名園』という古庭園が残ります。
それにしても写真が掘り起こされた「浮月楼庭園」のかつての姿は本当に今の静岡県内ではあり得ない…『駿府城紅葉山庭園』を拡張して浮月楼庭園再現してくれないかなあ(チラッ)。
(2014年5月、2016年11月、2019年4月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)