嵯峨天皇が離宮を営み、後宇多法皇が院政を行った皇室ゆかりの大寺院。国重要文化財の伽藍や庭園、藤井厚二の近代建築も。
旧嵯峨御所・大覚寺について
「旧嵯峨御所 大本山 大覚寺」(きゅうさがごしょ・だいかくじ)は平安時代初期の天皇・嵯峨天皇が営んだ離宮『嵯峨院』をルーツとする皇室ゆかりの寺院。鎌倉時代には後宇多天皇が出家した後に大覚寺にて法皇として院政を行ったため『嵯峨御所』とも呼ばれ、今日でも京都を代表する大寺院の一つです。宸殿・客殿が国の重要文化財、「大覚寺御所跡」として国指定史跡。また境内東部にある“京都最古の庭園”『大覚寺大沢池 附 名古曽滝跡』が国指定名勝。いけばな発祥の寺・いけばな嵯峨御流の家元としても知られます。
ここでは宸殿・客殿などから眺める白砂の石庭や苔むした中庭~池泉庭園について紹介。『大覚寺大沢池・名古曽滝跡』はこちら。
『平安京』に遷都した桓武天皇から数えて三代目、第52代天皇の嵯峨天皇は都の郊外・嵯峨野の地を好み、譲位して上皇になった後の833年(天長10年)には御所を新築し太皇太后と共に移り住みました。
嵯峨天皇の没後、その『嵯峨院』を前身として大覚寺が創建したのが876年(貞観18年)。嵯峨天皇は『東寺』(世界遺産)を下賜するなど弘法大師空海への信頼が厚く、この大覚寺も創建以来真言宗の寺院となっています(大覚寺派の大本山)。また前述の後宇多法皇の他にも後嵯峨上皇をはじめ皇室出身者が住持を代々つとめる皇室ゆかりの門跡寺院に。
室町時代以前の建築は応仁の乱などで焼失、大覚寺が現在に近い姿になったのは江戸時代のこと。重要文化財の“宸殿”は江戸幕府2代目将軍・徳川秀忠の娘で後水尾天皇に嫁いだ東福門院和子が使用していた御殿を、後水尾天皇により御所から下賜・移築された皇室ゆかりの建築。狩野山楽筆の襖絵も国重文。宸殿前には右近の橘と左近の梅が配された白砂の石庭が広がります。
宸殿と同じく石庭に面する御影堂“心経前殿”は大正天皇ご即位に際する式典で建築された“饗宴殿”を移築したもの。前殿とある通りその裏には“心経殿”というコンクリート造りの八角形のお堂があり、この2つが大正時代の建築。
御所風の寝殿造の和風建築が立ち並ぶ中では浮いた雰囲気の“心経殿”――でもこちらだけが国登録有形文化財――この近代建築を手掛けたのは『聴竹居』で知られる建築家・藤井厚二。そのデザインは奈良『法隆寺』の夢殿を模したもの。中には嵯峨天皇・後光厳天皇・後花園天皇・後奈良天皇・正親町天皇・光格天皇…と歴代天皇の直筆の般若心経が収められていて、開扉は60年に1度という厳重な役割を担っています。
お堂の北側には“村雨の廊下”等の渡り廊下から眺められる苔や樹木が美しい中庭が広がります。その最奥には池泉庭園の姿も。その畔にあるのが江戸時代中期に大沢池畔に建てられた休憩所が“庭湖館”。
庭湖館と並ぶのが通常非公開の貴賓館“秩父宮御殿”。その名の通り秩父宮家の御殿として東京の霞ヶ関離宮(現『国会前庭』)に大正時代に建てられたもので、昭和の中頃1970年代に大覚寺へ移築。池泉庭園はこの移築に伴って作庭されたものなのかな…。
大沢池に面して建つ「五大堂」は江戸時代中期の建造物で、大覚寺の本堂にあたるのはこの建物。毎年秋の中秋の名月にあわせて行われる『観月の夕べ』では大沢池を見下ろすこの“観月台”からの風景が美しいのだとか。そのタイミングでは訪れたことがないので、いつか訪れたい…。
>> 国指定名勝の庭園『大覚寺大沢池・名古曽滝跡』へと続く。
(2014年7月、2019年8月、2022年3月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)
アクセス・住所 / Locations
JR山陰本線 嵯峨嵐山駅より徒歩約15分
嵐電嵐山線 嵐山駅より徒歩20分
阪急嵐山線 嵐山駅より徒歩30分
最寄バス停は「大覚寺」バス停 下車すぐ
〒616-8411 京都府京都市右京区嵯峨大沢町4 MAP