ジブリ映画のモデルの洋館“盛美園”に隣接。750年ものあいだこの地に住む“清藤氏”の本邸に作庭された“大石武学流”最初期の庭園。国指定名勝。(要事前連絡)
清藤氏書院庭園「盛秀園」について
【冬季休業/要事前連絡】
「清藤氏書院庭園」(せいどうししょいんていえん)は青森・津軽地方ではぐくまれた日本庭園流派“大石武学流”の源流/最初期の作品と言われる国指定文化財(国指定名勝)の庭園。ジブリ映画のモデルになったと言われる洋館もある『盛美園』と同一の敷地内にあるこちらの庭園は、現在も清藤家の邸宅として用いられているため見学には要事前連絡。別邸の庭園だった盛美園に対してこちらは『盛秀園』と名付けられています。
清藤家の歴史は古く、鎌倉で北条氏に仕えていた初代・清藤盛秀が鎌倉時代の1200年代後半にこの地に移り住んで以来750年近くに渡り当地の有力者として活躍。江戸時代までは当地の大地主として、近代には実業家として第五十九国立銀行の役員などをつとめました。
明治時代の初め、1873年(明治6年)に建築の茅葺屋根の主屋・書院から眺められる枯山水庭園が“盛秀園”。庭園は建築よりも早く、江戸時代の初期〜後期にかけて段階的に作庭。
寛永年代(1624~1643年)に清藤家13代当主と親交のあった朝廷の公卿・花山院忠長がケヤキを中心とした庭を作らせ、その後元禄年代(1688~1703年)に京都から津軽藩に招かれた茶人・野本道玄が改修。この野本道玄が《大石武学流の祖》とも言われ、『貞昌寺庭園』など弘前市内にも文化財庭園を残しています。
その後、明治時代に屋敷の前を通る道路拡張によって縮小され現在の広さになったそう。その歴史から青森・弘前地方に根付く庭園流派“大石武学流”の源流/最初期の作と言われているこの庭園はシンプルな平庭の枯山水庭園。
近代に作庭された『盛美園』等のように広大ではないものの、屋敷から見て左手にある枯滝石組や、庭の中央にある平らな“礼拝石”など、まさに元となるパーツを感じさせる庭園。このシンプルさが逆に“京都らしい枯山水庭園が持ち込まれた”歴史を感じ取ることができるのではないかと思います。盛美園を訪れる際は、事前連絡してこちらもチェック!
(2016年11月、2023年9月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)