周防国/長門国を治めた大名・大内家の城館跡に残る2つの庭園。国指定史跡&国指定重要文化財の“龍福寺本堂”も。
大内氏館跡庭園について
「大内氏館跡」(おおうちしやかたあと)は室町時代~戦国時代に周防国・長門国などを治めた守護大名・大内家の居館跡。「大内氏遺跡 附 凌雲寺跡」として国指定史跡、続・日本100名城にも選定。その館跡に建つ『龍福寺』の本堂が国指定重要文化財。
2021年7月に5年ぶりに訪れたのでその時の写真を更新。道端からもその姿が見える池泉回遊式庭園(復元)だけでなく今回は枯山水庭園も。
平安時代末期~鎌倉時代から周防国を支配し始めた大内氏。室町時代(南北朝時代)に入ると周防の守護大名となり、この館跡は9代目当主・大内弘世がこの地を本拠と定めたのに伴い造営されたもの。
龍福寺の北部、八坂神社・築山神社に隣接地に「大内氏遺跡築山跡公園」がある通り(元々『菜香亭』のあった場所)最盛期は現在の龍福寺境内より更に広い規模をほこっていたそうで、以来1556年(弘治2年)に毛利元就が周防国を手中に収めるまでの約200年間、城館として用いられました。
■龍福寺本堂
現在、館跡の中心に建つ龍福寺。元は別の場所に鎌倉時代初期の1206年(建永元年)に大内満盛が創建、そして1336年(延元元年)に大内弘直が再建した代々の大内家ゆかりの寺院。
大内義隆の代には後奈良天皇の勅願寺にもなりましたが兵火で焼失。その後、毛利氏が周防に入った翌年の1557年に毛利隆元が大内義隆の菩提寺として大内館跡に再建しました。
国指定重要文化財の本堂は室町時代の1479年(文明11年)建立とされます。毛利隆元の再建よりも古い…?これは1881年(明治14年)に火災に遭いそれまでの本堂は焼失、現在の本堂は同じく大内氏ゆかりの『興隆寺』の釈迦堂を移築したという経緯によるもの(※なお興隆寺も別に廃された訳ではなく現在も残る)。
■池泉庭園(2号庭園)
龍福寺本堂を向かって右手にあるひょうたん池。これは昭和後期の発掘調査で見つかり、2011年(平成23年)に復元された大内氏館内で最大の庭園。1400年代後半に作庭され、毛利氏がこの地に入るまで存在していたと推定されています。
池のほとりにあるソテツは当時の史料にも記録が残り、また大内氏は京都にソテツを紹介したのだそう。庭園から龍福寺の本堂越しに見える山に、対毛利用に築城された『高嶺城』がありました。
■枯山水庭園(3号庭園)
で、境内の西側をぐるっとまわり、同じく発掘・復元された館の“西門”を通り過ぎた先に大内義隆の時代に作庭されたと推定されている枯山水庭園があります。こちらは池泉庭園より先、2005年に復元されたもの。
小石が敷き詰められた中に立石による枯滝の表現は、奈良県指定名勝『願行寺庭園』や滋賀の国指定名勝『福田寺庭園』などの同時代の枯山水庭園と似た造形で、京から広がった当時のトレンドを大内氏も見ていたことを感じ取れます。
現在見られるのはその2箇所のみですが、発掘調査では2号庭園よりも古いと推定されている“1号庭園”、そして1500年代に作庭さてたと推定される枯山水庭園“4号庭園”と計4つの庭園が発掘されています(1号・4号は埋め戻されている)。“庭の国宝”と言われる国の特別名勝『一乗谷朝倉氏庭園』にも負けない庭園文化の一端、でも確かにそうじゃないと雪舟が幾つも庭園作らないよな。
(2016年8月、2021年7月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)
アクセス・住所 / Locations
JR山口線 上山口駅より徒歩9分
JR山口線 山口駅より徒歩20分(*駅周辺にシェアサイクルあり)
山口駅より路線バス「野田学園前」バス停下車 徒歩5分
〒753-0093 山口県山口市大殿大路117-61 MAP