南禅寺参道の人気旅館/レストランに残る、“植治”小川治兵衛…ではなく近江の名作庭家“鈍穴流”花文が明治時代に作庭した回遊式庭園。
南禅寺参道 菊水庭園について
「南禅寺参道 菊水」(なんぜんじさんどう きくすい)は京都を代表する禅寺『南禅寺』の参道にある高級旅館・レストラン。そのルーツは南禅寺界隈別荘群の一つ『旧寺村助右衛門邸』で、その庭園は近代京都の名作庭家・七代目小川治兵衛(植治)によって作庭されたものとされます。(…が、庭園研究家による書籍『秘伝・鈍穴流「花文」の庭』によると、こちらの庭園は《旧外村宇兵衛別荘の庭園として、花文の二代目・三代目が作庭したもの》(『花文』=近江国で江戸時代末期に創業した造園会社)という史料とともに述べられています。詳しくは後述。)
「南禅寺界隈別荘群」という言葉の通り今日でも高級住宅/別荘街であり、参拝客向けの料理旅館も立ち並んだ南禅寺参道。こちらの「菊水」さんは1955年(昭和30年)に料理旅館として創業、近年経営者が変わり一部リノベーションを経て2018年6月にリニューアルオープン。和の建築はそのままに、玄関には宜本伸之さんによる現代アート作品があったりレストランフロアも和と洋が融合した空間に生まれ変わりました。
レストランフロア(主屋)から正面に広がる庭園。
他の南禅寺界隈の庭園と同じく“琵琶湖疏水”を活かした水の流れが庭園を横切り、庭園の西寄りに立つと東山の借景が現れる。そして流れの護岸や築山にベタっと埋められている奇石や人の目線を誘導する飛び石、お庭に点在する数寄屋建築…などなどやはり「南禅寺界隈の庭園はすごい!」と感動してしまう庭園。京都らしいモミジや苔の緑はもちろん、春には庭園中央で大きな桜の木が花を咲かせます。
初めて足を運んだ時点では小川治兵衛による庭園だと認識しており、近隣の『対龍山荘』や料理旅館『八千代』の庭園も小川治兵衛なので何の疑問もなく… で、訪れた後日に前述の『秘伝・鈍穴流「花文」の庭』を読んでいた所、下記の情報が資料と共に記載させていました。(ざっくり)
● 元は明治時代後期に近江商人・外村宇兵衛の南禅寺別荘が建てられた場所
● 作庭は“鈍穴流”花文の2代目・3代目によるもの
● 特に特徴的な凸の形をした巨石は確実に花文が三重県から仕入れたもの
● 外村家から呉服商・寺村助右衛門に渡ったのは昭和12年(1937年)
● 寺村邸の時代にも花文が入っていた
重要なのは、「世の中に出てる情報と違うから」ではなく、「植治ではなかったけど、更に別の優秀なクリエイターが関わっていた!」ということ。(一応花文の実績にはちょっと書かれている)
近江・五箇荘で創業して200年近い歴史をほこる花文、五箇荘の『外村宇兵衛邸』の庭園も彼らによる作庭。
ただ近江五個荘の庭園と比べると鞍馬の赤石など京都の庭石も多く、異なる特徴もある。色んな情報を見ていると昭和に「料理旅館 菊水」になって以降は「庭園は七代目小川治兵衛」という情報出しで統一されていた様子なので、“もしかしたら”寺村家に所有が移った後の途中から、出入庭師が植治になった…?(※前述の書籍によると、「花文が植治から仕入れた庭石」は伝票が存在しているそう。)
※なお外村家からこの庭園を譲り受けた呉服商・寺村助右衛門の屋号は“堺屋”。この論文によると近代には鉄道や銀行にも出資し、娘さんは高島屋の創業一族に嫁いでいるという、近代京都の名家の一つ。
「植治か、鈍穴流か」
前述の本でかなり詳細に論証されているので史実としては「この庭園を作庭したのは植治でなく花文」なのだと思うけど、真偽をつけたいわけではなく……やはり『植治の庭』か、京都の方には馴染みのない方の庭かで、価値に差がついてしまう、そういう側面はある――
でも植治がファットボーイ・スリムだとして、鈍穴流がダフト・パンクだとしたら「後者もすごいやん!?」ってなると思うんですよね……数名に知名度が偏っている(江戸時代の庭園で伝小堀遠州がやたら多いのもそう)からこそ起こってしまう現象、「色んな作庭家がアーティスト的に名前が売れていればこういう事は起こらないのでは」と思ったりする。
「この人は価値あるクリエイターだ」という風に色んな作庭家を伝えていきたいし、鈍穴流の庭園も本当に素敵な庭園が多い、だからこの庭園も当然素晴らしい!
(2020年3月・4月、2024年6月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)