上田宗箇も作庭に携わった“徳川御三家”筆頭・尾張徳川家の大名庭園は、十年以上に渡る修復の最中。国指定名勝。
名古屋城二之丸庭園・二之丸東庭園について
「名古屋城二之丸庭園」(なごやじょうにのまるていえん)は徳川御三家の一番手・尾張徳川家の居城で特別史跡『名古屋城』に二之丸に残る大名庭園。江戸時代初期の当初の築庭には武将茶人・上田宗箇が携わったとされます。国指定名勝。
2021年7月に約5年ぶりに訪れました。名古屋城は近年(2018年)『本丸御殿』が復元〜一般公開がはじまりましたが、並行して修復が進むのが二之丸庭園。
一部2016年と今回の写真を並べていますが、崩壊気味だった石組が整えられ、そして景色をカットしていた樹木が伐採されたりと変化が感じられます。完了予定は2025年以降で10年以上に渡る息の長い修復作業!それがリアルタイムで見られる貴重な場です。
その歴史は1610年(慶長15年)、関ケ原の戦いの後「大坂の陣」への備えとして徳川家康により築城がはじまった『名古屋城』。加藤清正をはじめ細川忠興、福島正則、池田輝政、黒田長政、金森可重などなど20数名の西国の大名が普請助役を任ぜられ、“天下普請”と称されます。
その後は明治維新まで約260年を尾張徳川家の居城として用いられ、明治維新後〜近代にも国宝保存法に基づき国宝となりますが、天守閣・本丸御殿などの建造物は太平洋戦争時の空襲で焼失。
現在の天守閣は1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものですが、今なお名古屋のシンボルとなっています。(そして将来的には木造での再建が予定)
天守閣の東部、最寄り駅の市役所駅から入場した場合は天守閣の手前にあるのが“二の丸”。二の丸の範囲としては『二之丸庭園』、『二之丸東庭園』のほかドルフィンズアリーナまでがその範囲に含まれます。
かつてこの場所には本丸御殿の3倍の規模の広大な“二之丸御殿”がありました。本丸御殿でもかなり広いのにその3倍って…もちろん?これは当時の大名の中でも最大で、尾張の政治の中心に相応しい“御城”の名で呼ばれたそう。
で、二之丸庭園は御殿の造営にあわせ1615年(元和元年)に作庭がはじまったもの。 庭園はその後度々改修され、回遊式枯山水庭園“二之丸東庭園”は尾張藩十代目藩主・徳川斉朝の時代に整備されたもの。その時代に庭園の全貌が記された『御城御庭絵図』を下に現在の庭園修復は進められています。
■前庭(3〜6枚目)
そんな広大な御殿と大名庭園も、明治時代に陸軍省の所管となった際に一部が取り壊し〜縮小。それに伴って整備された“前庭”も現在では国指定名勝の指定範囲となっています(石組に迫力があるから、石材は元の庭園から転用されたのかもなあ)。
■北御庭(1〜2、7〜23枚目)
現在の『名古屋城二之丸庭園』のメインとなるのが当時“北御庭”と呼ばれたエリア。幾つもの築山や深く掘られた園池、それらに組まれた豪快な石組が特徴の回遊式枯山水庭園。
先述した“天下普請”、築城に参加した大名のひとりが当時は和歌山藩主だった浅野幸長。そこに仕えていたのが上田宗箇。
名古屋城の作事奉行には小堀遠州(小堀政一)も名を連ねているので、作庭家の知名度的には“小堀遠州が〜”と言われてもおかしくないんだけど、浅野家の居城・和歌山城の『和歌山城西の丸庭園』と作風との類似点(玉澗流)や青石(紀州の?)が好んで用いられている点などから上田宗箇の作庭と言われるんだろう。
■二之丸東庭園(25〜30枚目)
十代藩主・徳川斉朝により整備された二之丸東庭園も明治時代に陸軍によって埋め立てられ、一時はその姿を失いました。しかし発掘調査でその遺構が見つかり、『御城御庭絵図』を下に1978年(昭和53年)に復元。
そんな感じで何度かの段階を経て復元や修復がはかられている、尾張徳川家の大名庭園。“北御庭”の整備後も御茶屋“余芳”の復元が予定されており、更にその先(天守閣の木造化以降)には二之丸御殿の復元というのもプランにはあるのだとか。
天守閣と比べると存在感が薄いかもしれないけど、『御殿と庭園⇒江戸時代最高級の日本文化が味わえた場所』てな具合に盛り上がったらいいな〜。
(2015年3月、2016年10月、2021年7月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)
アクセス・住所 / Locations
名古屋市営地下鉄・名城線 市役所駅より徒歩5分
名古屋市営地下鉄・鶴舞線 浅間町駅より徒歩10分強
名古屋駅や栄から路線バス「市役所」「名城病院」バス停下車 徒歩5分
〒460-0031 愛知県名古屋市中区本丸1-1 MAP