織田信長が気に入り安土城に移植した国天然記念物の大ソテツと、小堀遠州が駿府の風景を表現した枯山水庭園。
妙國寺庭園について
「廣普山妙國寺」(みょうこくじ)は戦国時代の1562年、阿波国から兵を起こし畿内を支配していた三好四兄弟の三好義賢(実休)が開基となり、佛心院日珖上人が開いた日蓮宗の本山寺院。境内には堺市指定名勝の枯山水庭園や、樹齢1100年以上と言われる国指定天然記念物“妙国寺のソテツ”があります。
このソテツも大迫力で、枯山水庭園もむっちゃくちゃよくて!写真撮影禁止だったので庭園の写真は撮れなかったのですが…「このパンフレットの写真なら載せていいですよ」と以前の堺文化財特別公開のパンフレットをいただいたので、カラーの庭園写真はそこからのもの。
国天然記念物の大ソテツに関するエピソード。かつて織田信長は堺に訪れた際にこの妙国寺に宿泊し、千利休にお茶の接待を受けました。その際にこのソテツを気に入り、後に完成した安土城に移植。
――のですが、安土に移植されたこのソテツが毎夜「堺に帰りたい」と怪しげに/悲しげに声を発したそう。プライドを傷づけられ?それに激怒した信長は部下に命じて切り倒そうとしたところ、ソテツは切り口から鮮血のようなものを流し大蛇のように悶絶。信長含む一同はその姿に恐れをなしソテツは妙国寺に戻されたとか。外観だけでも“日本一の蘇鉄”と言われて納得するド迫力なのですが、“霊木”として現在も地元の方々には大切にされているようです。
その大ソテツを一角として、白砂と数多く植えられたソテツが特徴的な枯山水庭園は小堀遠州による作庭(改修)とされ、庭園内には千利休が寄進したという灯篭・手水鉢も残ります。
パンフレットによると信長が訪れた時にすでにソテツを主体とした枯山水庭園はあったようで、同じく妙国寺を宿泊所としていた(本能寺の変の報もこちらで聞いた)徳川家康から遠州は妙国寺のソテツについて聞かされたそう。遠州は茶の師匠・古田織部を訪ねた際にあわせてこの妙国寺を訪れそのソテツに感激し、織部と当時のご住職の許可を得て庭園を改修。家康が心安らかに滞在できるように改修されたお庭は、築山は築かず、石組と白砂、ソテツにより大井川、藤川、富士山…という“駿府国”を表現した平庭林泉回遊式枯山水庭園。
お寺さんの庭園=仏教世界の表現――というのが主流だと思うのですが(枯山水は特に)、枯山水で駿府の風景を表現するって発想ってかなり突飛というか斬新だったのではって気がするし、その『庭園に国内の景観を表現する』というのは江戸時代の大名庭園では流行っていくわけだけど、この庭園ってもしかしたらその先駆け?めちゃくちゃおもしろいなあと思ったし、静岡県出身者としてもうれしくなった!
紹介では「日本で唯一の蘇鉄の枯山水」と書かれていますが、小堀遠州作庭説があってソテツが特徴的な枯山水庭園と言えば静岡県磐田市の『医王寺庭園』がありますね。…なんかそう思うと今の医王寺は地面に苔が自生しててそれはそれでいいんだけど、もしかしたら当時は白砂だったのかなあー。あれに白砂敷いたら妙国寺庭園と似ている気もする。
ただ『祥雲寺庭園』と同じく太平洋戦争の空襲で一時は荒廃。現在の庭園は江戸時代後期の史料?を元に復元整備されたものなので――全部が全部遠州のオリジナルってわけではないかもしれないけど、それにしてもこの庭園はすごい。そしてソテツは空襲に耐え現在に残るものとのこと。それがまたすごい。
なお幕末には、土佐藩士がフランス人水兵を襲撃した「堺事件」の処刑(切腹)の場にもなり、その際の血のりのついた遺品がお寺には残されているそう。またすぐ向かいの「宝珠院」さんには切腹した土佐藩士11名の墓所が残されており、“土佐十一烈士墓”として国指定史跡となっています。
そんな隠れた名園…撮影NGなのは警察も絡んで決定されていることだそうなので(堺に撮影NGなお寺が多いのはそういう背景なんだろう)、熱烈にお願いしてどうにかなるものではなさそうだったけど(笑)、いつか許可取って写真紹介したいな!
(2019年8月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)
アクセス・住所 / Locations
阪堺電軌阪堺線 妙国寺前駅より徒歩4分
南海電鉄高野線 堺東駅より徒歩15分
南海電鉄本線 堺駅より徒歩20分(駅にレンタサイクルあり)
〒590-0942 大阪府堺市堺区材木町東4丁目1-4 MAP