作者は武将茶人・上田宗箇か?紀州徳川家ゆかりの寺院に残る、桃山時代作の独特な枯山水庭園。国指定名勝。
粉河寺庭園について
「風猛山 粉河寺」(こかわでら)は奈良時代に開かれ、清少納言の『枕草子』でも名が挙がる和歌山・紀州を代表する寺院の一つ。西国三十三所観音霊場第3番札所。本堂や山門が国指定重要文化財となっているほか、桃山時代に作庭された独特な様式の枯山水庭園が国指定名勝。
2021年春に約4年半ぶりに拝観。その写真を更新しました。
関東に居るとあまり馴染みのない?粉河寺ですが、和歌山では高野山『金剛峯寺』や『根来寺』と並び称される代表的寺院の一つで、平安時代の書物では京都・清水寺や滋賀・石山寺、奈良・長谷寺といった寺院とも名を並べています。
その歴史は770年(宝亀元年)に地元の猟師・大伴孔子古により創建された後、最盛期には550もの子院を持ち多数の僧兵を擁する大寺院に成長。
戦国時代に豊臣秀吉(羽柴秀吉)の紀州征伐による兵火で焼失、縮小を余儀なくされますが、江戸時代には紀州徳川家の庇護により再建。
西国三十三ヶ所の中で最大の本堂、高野山や根来寺に次ぐ規模の大門、そして千手堂が江戸時代中期の建築で、中門は江戸時代後期の天保年間の建築。いずれも国指定重要文化財。また中門の扁額は紀州藩10代目藩主・徳川治宝の筆。またお寺の歴史を伝える鎌倉時代の書物『粉河寺縁起絵巻』が国宝に指定。
そして庭園について。だいたいお寺の庭園、特に国指定名勝になるような文化財の庭園は“お堂・建物の奥にある”のが基本ですが、粉河寺はそうではなく本堂の前に位置します。
本堂を配するかさ上げ部分の土留めとしての石垣も兼ねた枯山水庭園。本堂の真正面の階段は残しながら、その左右および上段部分に、豪快な石組とソテツ、サツキの刈込、枝垂桜が植栽された独特の造形の庭園。
作庭者は不明とされますが、粉河寺の本坊の庭園(市指定名勝・電話繋がらず拝観できなかった…)が武将茶人・上田宗箇の作庭とされる?ことから、作風や年代から上田宗箇の作庭とする人も。
琴浦の紫石、龍門石などの紀州の青石の名石を立石など豪快に使い、細い石や薄い石もアクセントとして見せる。氏の手掛けた『旧徳島城表御殿庭園』…というより同じく作者不明で桃山時代の『阿波国分寺庭園』と類似するかっこよさがこの庭園にはぎゅっと詰まっている。
なかなかここまで横に長い庭園もない!全体を俯瞰して見るには引いてみる必要があるので、名勝の指定範囲は柵がある範囲ではなく、広場自体が指定範囲なんだそう。だからうっかり小屋とかは建てられない。けどきっとかつてはこの広場も数多くの参拝客が滞留するぐらい賑わっていたんだろう(駅からの商店街も長い門前街の風情を僅かに残す)。
そして本堂の前庭だったこの庭園は約500年間、絶えず人の目に触れてきたという点もこの庭園ならではの価値。世界遺産・高野山へ訪れる世界の参拝者が大阪・奈良方面へ戻る際に立ち寄ってほしい名庭園の一つ。
(2014年1月、2016年10月、2021年5月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)