重要文化財含む20以上の国文化財建築が並ぶ、遠州・浜松を代表する名刹の現代日本庭園“羅漢の庭”。“栽松軒”渡邊松友作庭。
奥山半僧坊・方広寺庭園“らかんの庭”について
「方広寺」(ほうこうじ)は主に静岡県西部に約170か寺が属する臨済宗方広寺派の大本山寺院。室町時代から残る国指定重要文化財の「方広寺七尊菩薩堂」をはじめとして、明治時代〜昭和に建てられた22の建築が国登録有形文化財という静岡県西部(遠州地方)および浜松市を代表する寺院。
子供の頃に参拝した記憶があるけど、物心ついて以降は訪れた記憶がほぼ無かった方広寺…2022年4月、大人になってからは初めて訪れました。なお臨済宗方広寺派は明治時代までは京都『南禅寺』を大本山とする臨済宗南禅寺派に属していました。
その歴史について。南北朝時代の1371年(応安4年)、後の“徳川四天王”井伊谷・井伊家の分家の豪族・奥山氏の奥山朝藤が後醍醐天皇の子で禅僧となった無文元選を招き創建。元の時代の中国に渡って修行した無文元選禅師はこの地が中国の「天台山方広寺」の風景に似ていたことから“方広寺”を名付けられました。
なお奥山朝藤は自らの居城『奥山城』に同じく後醍醐天皇の皇子で南朝方の将軍だった宗良親王も迎えています。
戦国時代には遠江国を治めた徳川家康により復興されますが、明治維新後の1881年(明治14年)の大火によって境内の建造物の大部分を焼失。そのため国重要文化財の七尊菩薩堂以外はほぼ全てそれ以降に再建されたもの。
22件の登録有形文化財を時代別に分けると下記の通り。
■明治時代(総門/勅使門/半僧坊拝殿/半僧坊真殿/観音堂/神楽堂/水屋/札場/宗務本院/行在所)
■大正時代(本堂/三重塔/大庫裡/勅使玄関/七尊菩薩堂拝殿/知客寮/三笑閣/昭堂/鐘楼)
■昭和(山門/開山堂/禅堂)
上記のうち非公開の行在所は新居宿にあった本陣・飯田家の明治天皇行在所を移築したもの。開山の無文元選禅師が皇室だった縁から、本堂には菊の御門が入った勅使玄関がある点からもその格式の高さが伝わる。本堂に掛かる額は山岡鉄舟よる筆。なお本堂に安置されている釈迦三尊像も国指定重要文化財。
本堂・開山堂などメインの建造物から少し離れた場所にある三重塔。こちらは近代の実業家で多くの寺社仏閣に伽藍を寄進した好事家・山口玄洞の寄進によるもの。作者は京都府技手・安井楢次郎(京都の老舗・安井杢工務店と関係ある方なのかな)。
方広寺の見所の一つが“五百羅漢”。無文元選禅師が中国での修行中に天台山の石橋に羅漢が現れたという故事・また方広寺を開山した頃に500人の修行僧が居たことにちなみ、江戸時代中期の1770年(明和7年)にかけて当時の拙巌和尚によって彫刻・境内各所に安置がはじまったもの。山門(赤門)から参道沿いにはその故事を表した「石橋の上の羅漢」の姿も。
本堂の裏には山裾に自然石を積み上げ、多数の羅漢像が安置された“らかんの庭”(羅漢の庭)があります。その一角には与謝野晶子の歌碑や、頭上は多数のモミジの木が彩ります。
作庭を手掛けたのは方広寺御用達の庭師・栽松軒の渡邊松友さん。この渡邊さん、『足立美術館』で有名な磐田市出身/京都で活躍された作庭家・中根金作(中根庭園研究所)さんの下で修行をされて、地元の遠州で独立をされた方。
実はこれまで紹介した浜松・遠州の庭園の中にはこの方が関わっている庭園が他にも幾つかある。“浜松の日本庭園”のキーパーソンなのでは…と思うような方だけど、ウェブサイトやSNSもなくメディア露出も無いようないわゆる“職人”。当サイトでこれまでインタビューとかはやってないけど…話を聞いて紹介したい方候補です。
大庫裡と本堂の間の坪庭“雲海乃庭”もこじんまりながら雨の似合って良いし、その一方で現代に架けられた朱色の“亀背橋”からは豪快な滝石組の姿を見ることもできる。遠江の名刹、遠くない未来にまた拝観に訪れたい!
(2022年4月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)
アクセス・住所 / Locations
JR東海道新幹線 浜松駅・天竜浜名湖鉄道 金指駅より路線バス「奥山」バス停下車 徒歩3分(山門まで。そこから本堂まで徒歩10分ほど)
〒431-2224 静岡県浜松市北区引佐町奥山1577-1 MAP