冨賀寺庭園

Fukaji Temple Garden, Shinshiro, Aichi

関白・藤原忠平/将軍・足利尊氏/徳川家康も訪れ祈願した三河の古刹…新城市指定文化財庭園に国指定重要文化財“三千仏名宝塔図”も。あじさい寺としても人気!

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冨賀寺庭園について

「奥貴山 冨賀寺」(ふかじ)は愛知県の最も東にある市・新城市の高野山真言宗の寺院。飛鳥時代に創建、また室町時代将軍・足利尊氏ゆかりの古刹で、その庭園が新城市指定文化財(新城市指定名勝)となっているほか、国指定重要文化財の「三千仏名宝塔図」をはじめ多くの有形文化財を有します。また隠れた「あじさい寺」として地域でも人気!

新城市の中心部から南東部、静岡県との県境「宇利峠」「瓶割峠」などからも近い集落に位置する冨賀寺。その歴史は古く、寺伝では飛鳥時代の701年(大宝元年)に行基による創建と伝わります(当初の名は「来迎院」)。

現代の公共交通機関では少々アクセスが悪いものの、国を越える峠が近いこの寺院は古くは歴史的人物も多く訪れました。平安時代には藤原忠平が立ち寄った後に太政大臣/関白へと出世。後に部下に命じて本堂・護摩堂など十二坊舎を寄進、現在も大師堂に藤原忠平像が祀られています。

また鎌倉時代末期には後の室町幕府初代将軍・足利尊氏の弟・真応上人が冨賀寺住職に。その戦勝祈願の後に足利尊氏は将軍となり、この冨賀寺も尊氏の祈願時として本堂・阿弥陀堂など18の坊舎を造営しました。国指定重要文化財「三千仏名宝塔図」もこの際に寄進されたものと伝わります。

そして戦国時代には松平清康(徳川家康の祖父)、徳川家康らこの地の大名の本陣となり、江戸時代終わりまでは徳川家によって保護されました。
なお藤原家や足利家によって整えられた伽藍は武田信玄の遠江・三河侵攻によって全焼、また明治維新後の廃仏毀釈によって子院は姿を消していますが、江戸時代初期〜末期にかけ再建された七堂伽藍の姿を現在も見ることができます。

庭園は参道の手前側から客殿に面した池泉式庭園、弁天池(弁財天庭園)、そして本堂の脇の「水神庭園」、また順路の途中に見られる枯山水…など幾つかありますが、新城市指定名勝となっているのは客殿に面した庭園。
1692年(元禄5年)の客殿の再建と同時期に作庭されたと伝わり、現在は庭園内を歩くこともできますが、元の作りは客殿の縁側から見下ろす鑑賞式庭園。

境内の地形を活かした築山は正面だけでなく180度、L字型のような形で波を描き、池を正面に見てど真ん中と右手奥にそれぞれ石組が設けられています。そのうち右手奥の石組(不動滝/龍門瀑)が主なビューポイント…ながら、複数の視点を意識されたこの築山の感じは、この寺院と同じ旗本・金指近藤家ゆかりの寺院『実相寺庭園』や国指定名勝『龍潭寺庭園』にも雰囲気が似ています(芝生とタマリュウで印象がだいぶ違いますが)。中央のちょこんとした亀島がかわいい。

またその上段部にある弁財天庭園は鎌倉時代に設けられた溜池を江戸時代初期の寛永年間に改修され方池円島式庭園に。本堂脇の同じ形式の「水神庭園」も同時期の作庭と推定されています。これらの庭園の調査・修復は昭和の人気作庭家・重森三玲に師事した吉河功さんと氏の主宰する日本庭園研究会により行われました。

歴史や文化財目線での内容ばかりになってしまったけれど、隠れた「あじさい寺」でもあり、参道には花好きなご住職によって多くの紫陽花が植えられ6月には地元の方々が足を運ばれるそう。また春にはシャクナゲ、秋にはモミジが見どころとのこと。
平安時代作の仏像や江戸時代の画家・横井金谷の描いた四季山水図や徳川家康朱印状、今川義元文書などの寺宝は11月3日の文化の日の『寺宝展』で公開されているそう。三河の古刹にぜひ足を運んでみて。

(2023年7月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)

アクセス・住所 / Locations

JR飯田線 新城駅より約7.5km
新城駅より路線バス「曽根」バス停下車 徒歩15分

〒441-1334 愛知県新城市中宇利高田46-46 MAP

投稿者プロフィール

イトウマサトシ
イトウマサトシ
Instagram約9万フォロワーの日本庭園メディア『おにわさん』中の人。これまで足を運んで紹介した庭園の数は2,000以上。執筆・お仕事のご依頼も受け付けています!ご連絡はSNSのDMよりお願いいたします。
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