旧藤田邸庭園(藤田邸跡公園)

Fujita-tei Garden Park, Osaka

近代の大阪を代表する富豪・藤田財閥:藤田傳三郎の大邸宅の跡に開かれた都市公園。ベールに包まれた大阪市指定文化財の日本庭園も…。

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旧藤田邸庭園(藤田邸跡公園)について

「藤田邸跡公園」(ふじたていあとこうえん)は近代の大阪を代表する実業家で藤田財閥の創始者・藤田伝三郎(藤田傳三郎)が明治時代に造営した大邸宅の跡に開かれた都市公園。園内の一部に当時作庭された庭園が残り、「旧藤田邸庭園」(きゅうふじたていていえん)として大阪市指定名勝となっています。

公園の東には「曜変天目茶碗」など多数の国宝・国重要文化財を含む藤田家が収集した美術品が見られる『藤田美術館』が隣接(戦前までは同じ藤田家本邸の屋敷地)。2022年12月に美術館を訪れた際に紅葉の残る公園にも立ち寄りました。

明治維新後に「藤田組」(現・DOWAホールディングス/藤田観光)を創業。拠点の関西でのみならず秋田・小坂鉱山など各地の鉱山の採掘(鉱業)や岡山・児島湾干拓事業などで一大政商の地位を築いた藤田傳三郎。
この藤田邸跡公園、藤田美術館、西に隣接するモダンな建築『ザ・ガーデンオリエンタル大阪』(旧・大阪市公館)、道を挟んで東側の旧『太閤園』。かつてはこれらが全て藤田家(傳三郎や子の藤田平太郎、藤田徳次郎ら)の邸宅でした。

淀川に面したこの地を藤田伝三郎が取得したのは明治時代中期。1885年(明治18年)に発生した淀川の大洪水で荒廃した寺院『大長寺』の境内地を買い取り(同時に大長寺に新たな土地を寄進)、1893年~1896年(明治26~29年)にかけて当初のお屋敷が造営されました。
その後も明治後期~大正時代にかけて敷地は拡張。現在の藤田邸跡公園の場所に「本邸」、現在の『ザ・ガーデンオリエンタル大阪』の場所に「西邸」、旧『太閤園』の場所に「東邸」という大邸宅が完成。

しかし太平洋戦争/大阪大空襲の被害で本邸・西邸などが焼失(公園の大きな表門や『太閤園』に残された『網島御殿』などは焼失を免れた貴重な近代の和風建築)。戦後に開館した『藤田美術館』や『太閤園』が藤田家の流れが汲む一方で、西邸は大阪市公館に、本邸跡の大部分は長い空白期間も経つつ2004年に大阪市の都市公園『桜之宮公園』の一部として開園しました。

池泉回遊式の和風庭園を中心に緑の広がる藤田邸跡公園。文化財指定を受けているのは実は公園全体ではなく、公園の北東部の樹木が生い茂っている区画。その区画、2020〜2022年時点では倒木などの影響で?園路が閉鎖中なのですが(閉鎖されていないエリアとしては、中央の池の最奥の緩い築山付近)、その先には深山幽谷という言葉がピッタリの大きな滝石組と渓谷の景が見られるとか…。

作庭を手がけたのは大阪で代々造園業を営んでいたという梅園梅叟(ばいえんばいそう)。当初『太閤園』(東邸)の庭園を手がけた庭師でもあり、太閤園に先んじて明治時代のうちに作庭されたとされています。

かつては邸内に30〜40もの茶室があったとされる藤田家。この公園内には茶室は残されていませんが、その雰囲気を模した休憩所・四阿があります。
また2022年にリニューアルした『藤田美術館』は、それまで空間を隔てていた壁が取り払われより一体化した存在に(美術館の茶室や多宝塔も公園側からよく見える!)。閉鎖されている文化財庭園の区画も業者が入る掲示はあったので修復は進んでいるのかも。今後より良くなることを期待…!

(2020年7月、2022年12月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)

アクセス・住所 / Locations

JR東西線 大阪城北詰駅より徒歩4分
JR各線・京阪本線 京橋駅より徒歩13分
最寄りバス停は「片町」バス停下車 徒歩3分

〒534-0026 大阪府大阪市都島区網島町10 MAP

投稿者プロフィール

イトウマサトシ
イトウマサトシ
Instagram約9万フォロワーの日本庭園メディア『おにわさん』中の人。これまで足を運んで紹介した庭園の数は2,000以上。執筆・お仕事のご依頼も受け付けています!ご連絡はSNSのDMよりお願いいたします。
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