岩倉具視幽棲旧宅

Former Iwakura Tomomi House's Garden, Kyoto

明治維新を牽引した岩倉具視が一時京を追われ移り住んだ隠れ家——苔庭の作庭は七代目小川治兵衛。国指定史跡。

庭園フォトギャラリーGarden Photo Gallery

岩倉具視幽棲旧宅について

「岩倉具視幽棲旧宅」(いわくらともみゆうせいきゅうたく)は幕末から明治維新を代表する政治家・岩倉具視が幕末に一時失脚した際に3年間暮らした居宅。江戸時代末期に建てられた主屋などを含む敷地全体が国指定史跡。また主屋の前の苔庭は七代目小川治兵衛(植治)による作庭とされます。
3月に『実相院門跡』に行った時に本当はこちらも寄りたかったのだけど開園時間に間に合わず…9月末に改めて初訪問、そして11月に再訪。実相院門跡や『蓮華寺庭園』の紅葉も素晴らしかったけど、こちらの紅葉もきれいでした!

岩倉具視…については超有名人物なので説明を省きつつ、この地に居宅を構えたことについてサクッと。公家の中で『公武合体』派として発言力を増していった岩倉ですが、ある時から尊皇攘夷派に目をつけられるようになり。尊攘派からの脅しや洛中からの追放令などもあり、苔寺こと『西芳寺』ののち、この岩倉村に移り住みました。

ここで疑問。“岩倉村”って、岩倉の領地だからついた名前なんじゃないの?って話。京都の人からしたら「んなこたぁない」というのは常識なのかもしれないけど自分は非京都人なので「権力者からついた土地名なのかな」という風に想像していました。
正しいルーツはWikipediaにありますが、平安時代からこの地域にあった磐座を信仰した「石座神社」が地名のルーツとのこと。その後は公家領もこの地にあったとかで岩倉具視も教育の一環で子供の頃に農家に預けられるなど、元からこの地にゆかりはあったそう。

失脚し岩倉村へ移り住むことになった後、村の廃屋に住んだり実相院にもお世話になったりした後、大工が住んでいたという家を譲り受け拡張したのがこの幽棲旧宅。それまでが公家、後に日本を牽引する政治家になる人物…という先入観と比べると非常に質素な作りで、それは立場上この時期は「目立たない(隠れ住んでいる)」必要があったからで。
そして別に移り住んでからも全く大人しくしていたかというとそういう訳でもなく、坂本龍馬、中岡慎太郎、大久保利通らがこの邸宅を訪れその後の表舞台への復帰、王政復古~大政奉還へと繋がってゆきます。

質素、と言ったものの江戸時代後期の建築をほぼそのまま残す主屋“鄰雲軒”の障子の意匠や襖絵やなんかはセンスや格式を感じる。主屋や中庭越しに東側を眺めると現在は高木が目に入るけど、昔は高台から比叡山の風景を眺められたのかなあ。
岩倉が表舞台へ戻った後もこの邸宅は維持され、大正時代からは岩倉旧蹟保存会が所有、2013年に京都市へ寄贈され現在に至ります。現在では敷地内に岩倉の遺髪碑や、大正~昭和初期に関西で多くの近代建築を残している武田五一による『対岳文庫』(対岳は岩倉具視の雅号。国登録有形文化財)も。

そして“鄰雲軒”の前に広がる苔のお庭や玄関門からの延べ段などは、昭和初期に国の史跡になった頃?に“植治”七代目小川治兵衛が手掛けたものとされます。主屋から一段下がったところにも池泉庭園の遺構のようなものがありますがこれは違うらしい。
南禅寺界隈の広い池のある庭園――とは異なりますが、縁側からぼんやりと眺めていたくなる苔とマツと紅葉。“隠れ家”だった歴史の通り、喧噪から逃れてとても心落ち着く場所――。実相院門跡と併せて洛北のお庭巡りにどうぞ!

(2019年9月・11月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)

アクセス・住所 / Locations

叡山電鉄鞍馬線 岩倉駅より徒歩10分
最寄バス停は「岩倉実相院」バス停 徒歩2分

〒606-0017 京都府京都市左京区岩倉上蔵町100 MAP

投稿者プロフィール

イトウマサトシ
イトウマサトシ
Instagram約9万フォロワーの日本庭園メディア『おにわさん』中の人。これまで足を運んで紹介した庭園の数は2,000以上。執筆・お仕事のご依頼も受け付けています!ご連絡はSNSのDMよりお願いいたします。
PICK UP - TOUR / EVENT
MEDIA / COLUMN
最新の庭園情報は約10万人がフォローする
【おにわさん】のSNSから。