
近代に日本のアートシーンの礎を築いた岡倉天心が明治時代に造営した別荘・庭園と、3.11から復興した北茨城のシンボル“六角堂”。庭園と建築が国登録文化財。
岡倉天心旧宅庭園及び大五浦・小五浦/六角堂について
「岡倉天心旧宅・庭園及び大五浦・小五浦」(おかくらてんしんきゅうたく・ていえんおよびおおいづらこいづら)は茨城県北茨城市・五浦にある国登録記念物(名勝地関係)の庭園/ランドスケープ。近代に日本美術の発展・保存に尽力した岡倉天心が明治時代に造営した旧居(別荘)や庭園が残り、現在は『茨城大学五浦美術文化研究所』として運営・公開。観光名所としては『六角堂』の通称で知られます。その建築の一部も「茨城大学五浦美術文化研究所岡倉天心旧居」として国登録有形文化財、一帯には北茨城市指定史跡『天心遺跡記念公園』もあります。
2025年、久々に訪れたので紹介。
日本のアート・シーンの発展に欠かせない人物のひとり・岡倉天心(岡倉覚三)。
同じく近代に日本美術の保存に尽力したアーネスト・フェノロサの助手として活動したのち、日本の美術史家、美術評論家として活動、東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立やアメリカ『ボストン美術館』の一員として活躍。廃仏毀釈などで散逸する日本の古美術の保護や再評価に取り組む一方で、自ら設立した「日本美術院」ではその時代の美術家の育成・支援にも取り組みました。アーティストとしてではなく、シーン全体の底上げに尽力した氏は現在は「美術思想家」という肩書きとして語られます。
そんな岡倉天心が1904〜1906年(明治37〜39年)に掛けて整えられたのが現在の通称「天心遺跡」や「六角堂」。1903年に飛田周山の案内で初めてこの地を訪れ、その海岸線の風景を気に入り、自らの設計で邸宅と庭園を造営。愛弟子だった横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山らそうそうたる美術家が天心に伴って五浦に移住したことからもその影響力の強さが感じられます。
戦後の1955年(昭和30年)に横山大観が理事長の「天心偉績顕彰会」から茨城大学へ寄贈の申し出があり「茨城大学五浦美術文化研究所」が設立。1963年に「天心記念館」、1970年にはボストン美術館で天心の助手をつとめたアメリカの美術史家:ラングドン・ウォーナーの胸像が建設。記念館内の天心像やウォーナー像を手がけたのは昭和の有名彫刻家・平櫛田中。ウォーナー像の覆堂も昭和のモダン建築の巨匠・大江宏(記念館もそうだろうか?)。
海岸に向かった斜面に庭園が作庭されています。長屋門から主屋(天心邸)までは海沿いながらよく苔むした土塁と松林の小径。そして太平洋が開ける平地に天心邸が建ちます。元々この地には「観浦楼」という割烹があったそうで、その部材を使って天心の設計/地元の棟梁・小倉源蔵により手がけられました。
座敷の前に広がる芝生もただの芝庭じゃなく、天心がボストンから持ち帰った種を撒いて作られたものなのだとか。その向こうには太平洋(大五浦・小五浦)が借景に——
庭園から海に突き出た岩場の上に建つ、べんがら色のちょっとオリエンタルな雰囲気の建築が「六角堂」。仏堂の様な見た目で、四畳半ほどの広さの茶室の様な機能性もあり天心はこの場所で時に瞑想に耽っていたそう(往時の名は『観瀾亭』)。天心遺跡のシンボル的な建築ですが、往時の建築は2011年3月の東日本大震災の津波で流出する憂き目に。しかしそれを惜しんだ日本や世界の美術関係者の支援により、現在の六角堂が再建されました。
なお、「海に突き出て建つ六角堂」のビューポイントは、ここから徒歩10分程の『五浦岬公園』からになります。天心の名を冠した『天心記念五浦美術館』もそれとは逆側に徒歩10分ほど、そんな天心ゆかりの地にちなんだ現代のアートスポットとして近年は『チームラボ 幽谷隠田跡』も美術館の近くにオープン。いずれも駅から歩くにはちょいと離れていますが(バスも少ない)、道は広いのでタクシーならばすぐ!常磐線を旅した際にはぜひ立ち寄って。
(2016年11月、2025年8月訪問。以下の情報は訪問時の情報です。最新の情報は各種公式サイトをご確認ください。)
アクセス・住所 / Locations
JR常磐線 大津港駅より約3km(徒歩40分、タクシーで1,000円強)
【火・木・金のみ運行!】大津港駅より北茨城コミュニティバス「六角堂入口」バス停下車 徒歩3分→バスの最新情報は公式サイトを。
〒319-1702 茨城県北茨城市大津町五浦727-2 MAP
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